実録・戦後放送史 第93回
「大阪で朝日・毎日が競合①」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)
わが国の民間放送誕生をめぐる歴史のなかで、大阪における毎日新聞と朝日新聞の相克というか、この地域における免許をめぐって申請者の優劣を決めるために行われた「聴聞」は、この電波史に特筆しておかねばならない。
電波監理委員会は昭和25年12月2日、民放の免許方針について「差し当たり東京2局、その他の都市に各1局ずつ」と決め、早急に免許をとその準備を進めていた。
したがって初めから「大阪1局」と確定されていた。しかもその最有力と目されていたのは毎日新聞をバックとした「新日本放送」であった。そのころ同社はすでに会社設立も終え、免許を待つばかりの体制を整えていたのであるが、そこへ降って湧いたように朝日新聞が〝なぐり込み〟をかけてきたから、ことは面倒になった。
そこで富安電波監理委員長は、両社を血を血で争わせるようなことは避けようと、円満な合同一本化を策したのであったが、結局は成功しなかった。
このため委員会としては既定方針どおり(大阪1局)とするためには申請中の5社を一堂に集めて、その優劣を判定しようということになった。
この聴聞が行われたのは昭和26年3月16日から延ベ1週間(実質5日)であったが、正式に聴聞開催が各申請者に通知されたのは3月4日のことである。
電波割当をめぐって、その被免許人を聴聞によって決めるというようなことは、当時の行政史上としては初めてのことであった。この異例の聴聞は裁判の第一審と同格という権威あるものだったから、審理官も裁判官と同様な資格を持っていた。
かくて電波行政の舞台は一時的ながら大阪に移されることになったのである。
私は、この聴聞の行われる2週間ほど前に現地に飛び、朝、毎両新聞社の幹部に会い、彼らの言い分を聞いてみることにした。2月末の寒さの中を夜行列車で大阪駅に着くと、午前7時過ぎだというのに友人から声をかけられた。
この男は当時毎日新聞神戸支局長をしており、「神戸まで金を取りに行く途中だ」という。前日、毎日新聞の西部地区支局長会議があり、昨夜はお定まりの麻雀大会があり、いってみれば彼は敗軍の将であった。
その彼に要件を話すと、目指す高橋信三氏も、当夜のグループの一人で「まだ熱戦の最中だ」とのことだった。
堂島に新築されたばかりの大料亭で高橋氏に会った。一緒に遅い朝食を取りながら高橋氏は悲憤慷概やり場なしといった表情で次のように語るのだった。「キミ、こんなバカげた話ってあるか。実に朝日のやり方は汚い。もうこうなった以上、徹底的にやるしかない。もちろん勝算はありますよ。でも電波監理委員会もけしからんですよ」と。
その高橋氏と別れたあと、朝日の平井常次郎氏とあったが、平井氏も高橋氏と同様の意気ごみであった。
(第94回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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