実録・戦後放送史 第95回
「大阪で朝日・毎日が競合③」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)
〝大坂冬の陣〟ともいうべき朝日、毎日の決戦(聴聞)を直接この目で確かめるべく私は、その前日(3月15日)の朝、東京駅発〝特急つばめ〟に乗った。新幹線などない時代だったから、大阪に行くのはこれが一番速かった。当時としては贅沢な二等車に席をとってみると、乗客は日ごろから顔なじみの人でいっぱいだった。新聞記者もいれば、民間放送申請者も多く、正に呉越同舟というところであったが、これらの人々は言わずもがなで、私と同様、明日からの聴聞を取材し見聞することが目的であった。
移りゆく窓外の景色をながめながら、これから大阪では、どのようなドラマが展開されるのであろうか。また、それにしてもなぜこのような事態を招来することになったのだろうか。時折り響く汽笛や規則正しいリズミカルなレールの音を聞きながら、大阪における今日までの経過などを瞑想してみた。大阪までは余るほどの時間があるし、静かにものを考えるのには格好の環境であった。日頃は分刻みの仕事に追われて、静かに周囲を分析するいとまもなかった自分を振り返えってみるのにも絶好の機会だった。
長い丹那トンネルを抜けると、間もなく右手に真っ白く冠雪した雄大な富士の嶺が見えがくれするようになった。そして再び「なぜ、このようになったのだろうか」と反芻すると、その富士の嶺の中に富安電波監理委員長や網島さんの顔がシルエットのようにダブッて浮かんでくるのであった。
「とりあえず東京に2局、その他の都市に各1局」という免許方針を決め、その大阪の1局を決めるために富安さんは、しつこく訪ねてくる申請者の話(陳情)を聞いた。
しかし彼らの意見は我田引水ばかりであって、謙虚に大阪の人たちのことなど考えていないようにさえ思えた。そんなとき、ふと思いついたのが俳友でもあり関西財界の第一人者ともいわれた関桂三氏の存在だった。関さんに頼めば合同一本化の仲介役を果たしてくれるかもしれない。
そのように悟るとすぐさま富安さんは行動に出た。そして関さんもこれを受託した。結果は実らなかったけれど、関さんも強い意欲を示し、東京の原安三郎氏の斡旋が奏功した経緯もあり、いくら朝日や毎日が強がりをいってみても所詮はカネではなかろうか。
会社創立にしても放送局の建設や経営には多額の資金を必要とする。まして民放は広告に依存する。この面から絞っていけばなんとかなろう。
関さんにはそのような気負いがあったのかもしれない。だが流石の関さんも宿命的な新聞社のライバル意識の底の深さまでは理解できなかった。水と油が完全に融合することの不可能なことまで思いつかなかったのであろう。富安さんもやむなく朝、毎を土俵に上げて雌雄を決しさせようとしたのだ。そんな瞑想をしている間に〝つばめ〟は大阪駅に着いた。
(第96回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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