実録・戦後放送史 第98回
「大阪で朝日・毎日が競合⑥」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)
3月16日の聴聞の席で、朝日放送の杉山氏は、ターゲットを新日本放送にしぼり、他の3社には目もくれず、正面に座っている新日本放送側に対し、まともに攻撃をかけていった。
▽朝日放送の陳述(杉山氏)
①たとえばブランケット内の世帯数をみると、朝日放送が486であるのに対し、新日本は、2200世帯以上である。これをみて何れが公共の福祉に適しているかは説明するまでもない。しかも新日本のブランケットエリア内には学校が3つも含まれている。このことは、教育上の見地からしても由々しき問題ではないか。
②あまつさえ、この送信所の敷地は農地に指定されているほか、まだ国やその他から正式に払い下げも決まっていないというではないか。実証があれば示して欲しい(このとき新日本の立花氏が、たまりかねたように「審理官」と発言を求めたが、審理官はこれを無視した)。
それだけで終わったわけではない。技術上の争点として伊藤豊氏が、
①新日本の演奏所は放送用として適当であるかどうか技術的に立証せよ
②中継電話線も朝日放送は市外線を用いるのに対し、新日本は市内線を使うという。これは放送用としては不適当である
③新日本の送信所の位置も10KWには不適当。また放送機裏側の機械室は適当ではないし、アースの敷地も充分といえない等々、新日本の準備書面に一つ一つ駁論していった。伊藤氏も杉山氏におとらぬ毒舌家で「反論があるなら事実をもって答えよ」とまで言うのだった。
こうした情景を目のあたりにして私は「新日本は一本とられたな」と思った。それは最初に発言する者の強みというか、一般傍聴者や周囲の人達に強い心証を与えたこと。また朝日側は〝攻めのコツ〟をよく知っていたほか、短時日の間によくぞここまで調査研究したものだという驚きも含めてであった。
こうした朝日側の主張は延々一時間以上に及んだ。さすがに傍聴人もウンザリ顔だったが、審理官は知らん顔をしている。そのうえ我々第三者として不満だったのは、朝日の発言に対して即座に新日本から反論させるなど、両者を噛み合わせなかったことだった。
物見遊山ではないが〝ふた呼吸〟も間を置かれては観客はダレてしまう。しかも次の大阪放送と昭和放送の2社は、まるで毒気を抜かれたようにボソボソと自社の計画をしゃべるだけだったから、なおさらであった。
午後になってようやく新日本放送に発言の場が回ってきた。燗冷ましの酒を温めなおすように、また満を持して立花章氏が起ち上がった。しかしそこは役人上がりの立花氏のこと、一応抗議をこめた言い回しながら「こういうことがあるから大阪も2局にしてもらいたい」と主張したあと、オーソドックスに
①新日本の先願の熱意と優位を主張
②朝日側の主張にはすべて証拠をもって対決すると結んだ。
また高橋信三氏も朝日の態度をなじったが、関西弁のためあまり歯切れがよくなかった。高橋氏が「始めから統合は無理であった」とライバル同士の立場をくどいほど説明したところでこの日の聴聞は時間切れとなった。
かくして大阪における聴聞は、朝日、毎日両新聞社による血で血を洗うような闘いも終わり、審理官から出された意見(答申)が注目されたが、結論は「両者ともA級」とするという判定であった。
これを受けて電波監理委員会は4月15日、それまでの方針をくつがえし大阪も、2局とすることを決めた。
(第99回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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