実録・戦後放送史 第99回
「各地で民放誕生①」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)
大阪の置局方針が決まった以上、委員会としては、すみやかに全国から出されている申請を審理して予備免許を下す必要に迫られた。
免許を急ぐ理由として、4人の委員の渡米が4月23日に迫っていたからである(注・最初は5人の予定だったが、坂本直道委員が病気のため辞退が認められた)。
かくして電波監理委員会は4月18日から20日を目途に審査を始め、それまでに申請を受理した41社について一件一件チェックしていった。事務当局から用意された資料は各委員の机上に山と積まれるほど尨大な量にのぼったが、まず、あまり問題でないところから処理しようということになり、最初に決まったのが名古屋の中部日本放送だった。
次いで京都、神戸、広島、福岡、札幌、仙台、東京(ラジオ東京)の順で処理され、次いで大阪の2局(朝日、新日本)が決まったが、久留米、徳島、北陸三県(富山、金沢、福井)についてはかなり論議のすえ、政治的配慮を含めての免許だった。
とくに徳島や久留米が一般常識からみて「重要都市」に当たるかどうかの判断であったが、この二地区については、坂本、岡咲両委員が強く免許を主張したといわれる。
いずれにしても、前記15地区が決まり、残された「東京の1局」の処分が爼上に上った。そのとき東京地区には「日本文化放送協会」と「文化放送株式会社」の2社の申請が受理されていた。しかも、この2社は片や財団法人、一方は株式会社だから経営方針から番組編集方針も、また、工事設計から機器の睛入さえ全く異なっていたうえ、日本文化放送協会は経営財源を各国の宗教団体からの寄付に依存するというものだったから、この両者の二者択一で19日の委員会は議論百出、夜にいたるも結論をみず、20日に続会となった。
しかも20日の委員会は「後日のため」と、各委員の発言のすべてを録音するという、これまた異例措置をとった。富安委員長は「まず私から」と発言し、「委員会の独立性の堅持と後世に悔いを残さぬように」と前置きして、両社の計画内容を具体的に検討分析した結果を述べた。
「私の結論は、両者ともなお検討再審査の要がある。したがって免許は時期尚早であり、留保が至当である」と免許の保留を主張した。
続いて網島副委員長、坂本直道委員が「両者とも免許を拒否するのが至当」と旗色を鮮明にした。これに対して抜山平一、岡咲恕一、瀬川昌邦、上村伸一の四委員が「日本文化放送協会に免許を」と発言したため、表決の結果4対3の多数決で、日本文化放送協会(JOQR)の免許が決定した。以上がその経緯である。
わが国初の民間放送(ラジオ局)16社(16局)の予備免許は、いままで縷々として述べたような経緯を経て、昭和26年4月21日に正式に交付された。
(第100回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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