実録・戦後放送史 第101回
「正力松太郎プラン①」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)
今回から日本のテレビジョン放送が、どのような経路をたどって今日に至ったかの歴史を、私自らが取材体験したままを綴ってみたい。
ただ、テレビジョンの歴史を辿っていくと、有名な高橋健次郎博士の研究だけでも約30年に及ぶ年月があり、送受信技術開発の足どりなどのすべてを解説してゆくことは、到底不可能である。とくに純技術的なことになると、すでに数多くの専門的著書や文献が巷に氾濫しているうえ、私ごとき中途半端な知識を持つものの手に負えない。
また〝メガ論争〟といわれた聴聞だけでも尨大な日時を要する。そこで、これから綴る物語は、私の記者生活を通じて知り得た出来ごとを中心に、そのままを簡潔に披露するという形で進めることとしたい。
昭和26年4月、朝日、毎日両新聞社などが〝社運を賭す〟ような騒動のすえ、民放ラジオの初免許を獲得して、世の中をホッとさせていたところへ、こんどは日本全国ばかりか米英までも巻き込んだ大事件「テレビ騒動」が持ち上がった。
26年の秋、いわゆる「正力プラン」が発表された。これを契機に国中が蜂の巣を突っついたような事件に発展していった。この波乱にとんだテレビ前夜を振り返ってみると、そこには小説よりも面白い事件が相次いだ。
さて、物語の始まりである。私の旧友で穴原芳雄君という某証券会社に勤める男がいた。その彼から「隣家に〝変な外人〟数名が、読売新聞の社旗をつけた車で出入りしている」と電話が入った。昭和26年8月23日のことである。
当時、穴原君は東京・中目黒の住宅街に住んでいた。そして彼のいう隣家とは、某電気メーカーの社長宅であった。好奇心も手伝ってすぐ穴原君をたずね、その邸を監視?することにしたのであるが、なるほど彼のいうような外人の出入りするのをこの目で確認したが、その〝変な外人〟とは実際は三人で、あとでわかったことだが、米上院顧問ヘンリー・F・ホルシューセン、ウイリアム・ホールシュテット(クロスビー研究所員)と国連通信部長と名乗るウォルター・ダスキンスキーの三氏だった。
彼らは26年8月22日来日し、約一週間にわたって正力松太郎氏にテレビジョンの知識を〝伝授〟したのであった。
そして、この3人を専らエスコートしていたのが、読売新聞記者で柴田秀利君と正力氏の私設秘書といわれた山際満寿一両氏であった。
柴田君は私の記者仲間の一人で、当時NHKの解説委員(委嘱)をしており政治外交問題の担当だった。
なんと、この柴田君は昭和26年4月、電波監理委員四名がGHQの命令で「アメリカ研修」に派遣された際「とくに1人の新聞記者が同行する」と指名された人物であって、当時の人達はそれが何者であり、何の目的だったか(名前さえ)知らされていなかったのである。
(第102回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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