実録・戦後放送史 第102回
「正力松太郎プラン②」
第3部 放送民主化の夜明け(昭和26年)
讀賣新聞記者である柴田君をたずねると、彼は「近く読売新聞紙上でテレビ構想を発表する予定だが、真意とか詳しいことはオヤジ(正力氏)に聞いて欲しい」という。
柴田君の紹介で、正力氏とはじめて直接会ったのは昭和26年9月初旬のことだった。場所は東京・大手町の野村ビル内にあった「関東レース倶楽部」の一室で、指定された面会時刻は午前9時30分。まだ残暑もきびしく冷房ひとつない部屋で正力氏はただ一人、開襟シャツに黒ズボンという軽装で私を待っていた。
「キミが、わしに会いたいというのは、テレヴィーのことかね」想像していたより老けた感じの正力氏は、テレヴィーと語尾を長く引いた独特のアクセントでそういうと、あとは、こちらの質問などお構いなしで「これからの日本の産業、経済を発展させ、国民生活を豊かにするにはテレヴィーをおいて他にない。すでにアメリカでは500万台も普及している。これを日本で一番先にワシがやろうと思っとる」禿(はげ)あがった額には小皺が多く、しかも艶のない顔で、どこにこれだけの生気があるのかと疑いたくなるようなこの人は、次第に熱気を帯びた口調で語り出した。
「しかるにだナ、小松君(注・当時のNHK副会長)に聞いたら、まだテレビは時期尚早だ、少なくとも2、3年先のことだと言う。
だからワシがすぐやると言ったんだ。NHKは技術的にまだ研究に時間を要すると言っとるが、日本の技術なんかは所詮アメリカの輸入にすぎん。こちらが2、3年で追いついたつもりでも、向こうはもっと先に進んでいっとる。だからワシはまず、むこうの進んだ機械を買って直ぐ放送を始めようと思っとるんじゃよ」このように正力氏は一気にまくしたてるように言うと、さらに言葉を継いでこんなことまで言い出した。
「小松君がそう言うから、このあいだ東芝の清水君(与七郎氏)に聞いたら〝国産でもできる〟と言っておった。しかしワシとしては、世界でもっとも信用のあるRCAの、しかもその三番機を購入することにしたんだ。経験のあるものを使わんと危険だからネ。この点についてはホルシューセン博士も太鼓判を押している」と、ここではじめてホルシューセン氏の名前が出た。
それからは雄大な構想が次から次へと明らかにされる。
(第103回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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