実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第105回

「テレビの始まり②」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)

 それから間もなく河端作兵衛と名乗る人物が、同様に私をたずねてこられ、「テレビ開局申請書を出してきた」と告げられた。昭和26年1月のことであった。

 白面痩身の坂本氏にくらべ河端氏はデップリ肥った大男だった。折しも折り読売新聞はこの年の元旦号にテレビ実験局を申請すると社告を出して世間をおどろかせたのを記憶しているが、これが私のテレビ放送とのかかわりのはじめである。だが当時は民間放送の免許以前であって大きな関心を持ついとまはなかった。しかし彼らの国会や政財界に対する〝はたらきかけ〟は、益々熾烈となっていくのであった。

 このようなテレビ熱に刺激された国会では「まず、そのテレビジョンの実態を視てやろう」ということになり、昭和26年2月16日、参議院で初めて受像公開を行った。このとき家庭用受像機四台と、投写型受像機が初めて公開されたのである。

 想い出してみると、この年はとくに寒さが厳しく、前々日には雪が降った。このため機材を搬入するNHK職員らは大変だった。徹宵でこの作業に当たったのである。議事堂から遠く離れた世田谷区砧の研究所から、受信用の手製アンテナや受像機を雪中、人力で運ばなければならなかったからだ。そんな苦労を知ってか知らずか、参議院第一委員会室は議員とその秘書、職員らで超満員。彼らに与えたインパクトというか感銘は〝ひとしお〟のものがあった。私も一緒にこの光景をみて満場の熱気に打たれると同時に〝テレビの夜明けは近い〟と肌で感じたものだった。

 そしてこの年の5月、国会はテレビジョン促進決議を行い、電波監理委員会に早期に方式決定を促すなどしている。これを受けて電波監理委員会は8月早々「テレビジョン放送に関する方針」を次のように発表した。

一、テレビジョン放送をすみやかに実現するため、さしあたりブラック&ホワイト(黒と白)システムを採用することとし、逐次カラーテレビに移行する。

二、前記黒白システムの採用に際し、いかなる標準方式をわが国において採用するかは、さらに検討されるが、その基準作成に当たっては、将来実現すべきカラーテレビの実施を阻害することのないよう慎重に考慮する。

三、使用する周波数の幅については、わが国の実情にかんがみ、もし帯域を広くすることによって経済的および技術的な負担を軽減し得るならば、必ずしも欧米において現在採用中のものにこだわらない。なお、実現に際しては前記各方式の利害得失を十分研究して数案をつくり、さらにこれを研究する。

 以上が、いうところの基本方針であった「が、その内容を分析してみると、かならずしもアメリカ方式にこだわらない、となっていた。政治的含みである。要するに当時の電波監理委員会としては、技術基準等について確たる自信を持つにいたらず、また内外の研究の実情その他を勘案してから具体案を発表しようとしていたようであった。しかし、一方では「早期実現」を求める声は、慎重論を陵駕する勢いに発展していった。

 このようにテレビをめぐる国内の動きは昭和26年を迎えて急激に高まってきたのであるが、実をいえば正力プランをふくめた外圧による要因が、これを左右したといえよう。

(第106回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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