実録・戦後放送史 第106回
「テレビの始まり③」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)
ここで少し、当時の裏面史を私流に披露すると、小説よりも面白い事実が隠されている。
もっとも、これから明かす「裏面史」の中には、私の推理も多少含まれていることをお断りしなくてはならないが、テレビの話が日本に最初に持ち込まれたのは、昭和24年からのことである。
当時アメリカで著名な電子技術者として知られるデ・フォーレストが「三極真空管」を発明し、これがテレビの開発と普及に大きく貢献したが、これを日本に持ち込もうという動きとなって現れた。
デ・フォーレストは「日本でもテレビを事業化したら儲かるし、民衆のよろこびもラジオとは比較できないものがあろう」と、この話を皆川芳造氏に持ち込んだ(皆川氏は戦前〝ミナ・トーキー〟の名称で音響機器の販売をしていたが、これはデ・フォーレストの特許を使用したトーキー会社である)。しかもデ・フォーレストは皆川氏と共同で日本政府にテレビ事業を出願しようというものだった。
皆川氏は、このような大事業は、むしろ私のような者でなく、戦前、戦後にわたって〝政財界の大物〟といわれた鮎川義介氏がよかろうと、鮎川氏に打ち明けた。
すると鮎川氏は「これだけの大仕事をやれる者は正力松太郎をおいて他にない」と、正力氏を打診した。企業欲に燃える正力氏は、即座にこれをOKしたのだった。しかし、当時彼は、公職追放の身で、〝表向き〟の仕事は一切禁じられていたのであった。
それを聞いたデ・フォーレストは、すぐに米国防省や連合国軍司令官マッカーサーなどに対して正力氏の追放解除を働きかけた。デ・フォーレストの請願と、正力氏自身からの吉田首相へのテレビ事業促進のはたらきかけは、昭和24年の段階では効を奏さなかった。その理由の一つは多額のドルを必要としたからでもあった。
世の中はすべて金(かね)がモノをいう。昭和20年11月マッカーサーからデ・フォーレストに送られた書簡には「もしこの計画が多額のドルの支出を含まないのなら(正力氏について)何らの異議もありません、云々」とあったという。
もう一つ、この機会に追加しておきたいことは、先に民間放送(ラジオ)の免許をめぐる問題のあったときである。すなわち「ラジオ東京」への統合一本化をめぐって、私は朝、毎、読三新聞社の、本当のハラを探ったが、その時すでに読売は「ラジオよりもテレビ」という考えを持っていたのである。だから読売はラジオ免許には消極的だった。その内々のウラは柴田秀利君から直接聞いていたので、私は〝あの日〟原安三郎氏に斡旋者を頼むとき「朝日はともかく読売は(ラジオには)本気ではありませんよ」と真相を打ち明け、仲介の労をとってもらった思い出がある。
さて本題に戻すと、朝鮮戦争のぼっ発と戦後全世界に〝はびこって〟いった共産主義の台頭に、もっとも頭を痛めたアメリカは、民主主義擁護の旗頭として、全世界に電波によるプロパガンダ(宣伝放送)を強化する構想を着々と実行に移していった。最初はラジオのみであったが、これにテレビを併用しようという計画である。はじめは、とりあえず日本とドイツにテレビ網の建設をするという計画であったが、予算等の関係から、さしずめ日本にこれを実現させようということになった。
(第107回に続く)
NHKはその頃、テレビ列車を全国に巡回して啓蒙普及につとめた
この記事を書いた記者
- 放送技術を中心に、ICTなども担当。以前は半導体系記者。なんちゃってキャンプが趣味で、競馬はたしなみ程度。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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