「正力松太郎プラン③」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)
正力氏は、話を聞きにきた私に対して、
「キミの新聞は権威ある新聞だから初めて明かすが、大いにこのことを書いてくれ給え」この人にしては、めずらしくそんなお世辞までいわれて、正に意気軒昂そのものであった。
それにしても私には「受像機はどうするのか」という疑問があった。
「その点はだな、ワシには秘策があるんじゃよ。まず人の大勢集まるところで、面白い番組をウンとみせて大衆の関心を呼び起こすことだ」
正力氏はここではじめて「街頭テレビ」の構想を明かされた。「もちろん、テレヴィーには金がかかる。しかし藤原銀次郎氏をはじめ賛成者は沢山いる。巨人軍の野球やいろいろなスポーツ中継もやるし、事業として必ず成功するよ」いつの間にか一時間以上が経って、そこへ山際満寿一氏が来客を告げに入ってきた。山際氏が手にしていたのは、なまぬるいコップ一杯の水であった。
別れぎわに正力氏は「小松君に会ったら〝テレヴィーはワシがやるから、NHKは安い受像機の、それも普及するようなものを、早く研究するよう〟にと伝えて下さい」正に人を喰った態度でそう言うと席を立った。
ここで正力氏が私に語ったテレビ構想について紹介していきたいと思うが、その前に正力氏のことを少し紹介しておくと、氏は読売新聞の社長だったが、21年「戦犯容疑」で公職追放の身となり、26年8月のはじめ追放解除になったばかりであった。
そのような境遇にあった人が、なぜ、このような事業の、しかも具体的建設計画まで熟知していたのだろうか。そのあたりの〝いきさつ〟は、逐次紹介していきたいが、その前に正力氏が明かしたテレビ計画とは、まず関東周辺から放送を始め、順次全国的に中継網を設置して全国放送を行う。技術的には「マウンテントップ方式」を採用し、山項から山項ヘマイクロウェーブの電波で結んでゆく方法を採る。
その手始めとして「まず富士山項にアンテナを建て、そこから電波を発射する」という雄大な計画だ。さすがに私もおどろいた。マウンテントップ方式ということばもはじめて聞く新語であった。
そしてその普及計画は
▽第一次計画として、放送開始は27年4月からで、これには名古屋、大阪を含める。
▽第二次計画は信越、九州、中国
▽第三次計画として北海道、東北、四国地区に順次普及させていくが、このため全国二十二カ所にマイクロ中継所を作るとともに、空チャンネルでファクシミリ放送も行う。「だから社名も日本テレビ放送網とする」とのご託宣である。
正に「鬼面人を走らす」といえる大計画であった。聞いていて、このプランのどこまでが正力氏自身の発想か?と疑うばかりだったが、あとで実際の組み立てはホルシューセンやホールステット、ダスキンスキーの3氏の指導によるもので、彼らが1週間にわたって正力氏に教えこんだ構想だということが判った。
(第104回に続く)