「マッカーサー書簡で決着」
電波三法案は二十四年十月十二日の閣議で正式に決定のうえ総司令部(GS)に提出されたが、これに対してGSから再びクレームがついた。電波監理委員会の性格等についての基本的な修正要求である。 GSは、まず電波監理委員会の委員長に国務大臣を当てることに反対し、また、内閣の再議権は認めるが、それ以上の議決変更権や再々議要求は認めない、というものであった。 つまり電波監理委員会は内閣からの独立性を強調したものであった。GSが云うのは、日本に新しく設置しようとする「電波監理委員会」の性格は、その頃、すでにアメリカで採用されていたFCC(注・連邦通信委員会=議制による独立した行政機関で、放送局、無線局等の免許ならびに監督等一切の権限を、大統領から与えられている)とほぼ同一のものであった。 しかし、当時の吉田内閣は、このような行政委員会制度は、日本の政治機構になじまないと強く反対した。このため、せっかく作り上げた法案は、昭和二十四年十月二十五日に召集された第六回臨時国会に提出されるにはいたらなかった。 こうした日本政府と占領軍当局の確執はいつ解けるのか混迷の続いた一時期があった。 そうした事態に急転終止符を打たせることになったのが、有名な「マッカーサー書簡」である。マ元帥から吉田首相あてに出された書簡といえば、正に最後通告というか決定的な意味を持つ。しかも、その書簡の内容はGS修正案よりさらに厳しいものであった。 マ書簡は、まず「先般のGSの修正に応ずること」と釘をさしたうえで、電波監理委員会設置法の政府草案は「委員会が、外部の党派および機関からの直接の制動または影響に対して適切な保障が設けられていない」こと、「国務大臣による委員長制と内閣の再議要求権は、正に委員会の独立性を根本から否定するものである。従ってこの二点を原案から削除すべきである」となっている。 仄聞するに、このマ書簡の背景には、CCS(民間通信局)と当時まだ存在していた電気通信省の臨時法令審議会の鳥居博主査(注・行政委員会制度推進論者)の話し合いで作られたといわれる裏話がある。 それはともかく、さすがに強硬な吉田首相も、マッカーサーの命令を受け入れざるを得ず、国務大臣の委員長制の放棄と内閣の再議権の削除を行い、全く自由裁量のできる電波監理委員会設置法案ができあがった。 これにより、もっとも難問題であった委員会制度への制限規定の修正がなされたことによって、電波三法案の成案は急速に進められ、昭和二十四年も押し詰まった十二月十九日の閣議で最終案が決定し、二十二日、電波、放送の二法が、また二十三日には電監委設置法案が閣議で正式に決定、第七回通常国会に提出されたのである。 (第39回に続く)