実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第33回

「第一次放送法案を策定①」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和23年)

逓信省は、最終的な「放送法案」を成案し、CCS(民間通信局)に提出して総司令部の意向を打診(相談)した。
これに対してかなりの曲折を経たすえに、政府は昭和二十三年六月十五日の閣議決定、同十七日司令部の最終的承認を経て翌十八日、第二回通常国会にこれを提出した。
思い出してみると、その当時放送の民主化をふくむ電波関係法律の制定を促す動きが日を追ってはげしくなっていた(注=二十一年十一月の時点から数えると、実に一年八カ月の日時をかけたことになる)。
また、この二年足らずの間に内閣も第一次吉田内閣から片山、芦田内閣へと目まぐるしく変わり、いかに当時の政治、社会の動きが激しかったかを思い出すのである。
さて、注目のその(第一次)放送法案の内容および骨子は次のようなものであった。
一、放送の自由と不偏不党の定義を確立すること。
二、内閣総理大臣の管轄下に合議制行政委員会として「放送委員会」を設け、放送に関するすべての問題を監理監督する。
三、放送委員会の監理の下公共機関としてのNHK(特殊法人)を創設する。
四、すべての放送は「免許事業」とし、NHK以外にもこれを認める。
五、番組、とくに「ニュース記事」「時事解説」等について「真実を守る」などの七項目の制限規定を設ける。
六、放送委員会の編成は五名とし、国会(両院)の同意を得て内閣が任命する。
七、公共放送であるNHKに受信料徴収権をみとめるが、一般放送(民間放送)は広告放送を収入源とするので受信料の徴収を認めない。
以上のような画期的な法案であったが、この法案は第二回通常国会の会期(七月五日)切れが迫っていたことなどから実質的審議が行われず、しかも十月七日には芦田内閣が昭電疑獄事件で総辞職する(十月十九日に第二次吉田内閣の誕生)などの政変があった上に、与党・民自党は国会提出法案山積を理由に同法案の撤回を政府に求めるにいたった。
結局、第一次ともいえる初期の放送法案は、ほとんど表向きの審議が行われることなく廃案の運命をたどることになるのであるが、火種は決して消えたわけではなく、むしろ「内面的」には各方面での論議は、高まってゆくのであった。
特に国会内で熱心だったのが参議院の電気通信委員会であり、深水六郎委員であった。
国会休会中であったにもかかわらず、NHKや同労組、放送委員会のほか民放出願者などを呼んで意見を聴いたうえ、全国十三都市で公聴会を開くなどした。
(第34回に続く)

「電波三法はオレが作る」 と意気込んだ深水六郎氏

「電波三法はオレが作る」と意気込んだ深水六郎氏

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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