実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第47回

「注目集めた放送法巡る公聴会①」

第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
 こうして電波三法案は、昭和二十四年十二月二十二日から二十三日にかけて、第七回通常国会に提出され、年も明けた二十五年一月二十四日に衆議院電気通信委員会に付託(提案理由の説明)、参議院でも同日行われた。
 総括すると衆議院では電気通信委員会が十五回、本会議が二回、公聴会二日間。参議院では、同委員会が二十一回、本会議二回を開いている。
 なお、電波監理委員会の設置に伴い「電気通信省設置法」を改正するための内閣委員会が衆議院で五回、参議院が三回、本会議が各一回開かれた。以上要約すると、この法案の国会提出から成立までの日数は延べ百三十二日となっている。 
 このように電波三法案は昭和二十二年二月発議されて以来三年有半にわたって、国民各界各層の注視と、政治的にも幾多の難関を越えて成立したものであって、国民の一人として私も、このような法律の重要性を深く胸に刻んでいる。
 しばらく理屈っぽい描写が続いたので、今回からは国会(衆議院電気通信委員会)が開いた放送法を中心としての公聴会の模様を紹介して参考に供したい。
 衆議院の電通委員会が開いた公聴会は昭和二十五年二月七、八の両日のことであった。
 この公聴会第一日は、午前十時二十四分から開かれ、阿部真之助(当時評論家)、神野金之助(名古屋鉄道社長)、杉山達郎、別所重雄(ラジオ日本創立事務所)、梅田博(読売新聞論説委員)、杉山勝美(朝日放送設立委員)、古垣繊郎(NHK会長)、水谷八重子(芸術座座頭)、森田実、吉村正(早稲田大学教授)各氏の十人(いずれも当時の役職名)が出席して意見を述べ、また委員の質問に答えた。
 思い起こしてみると、この日は如月(きさらぎ)の名をそのままに、晴天ながら寒さのこたえる日であった。しかし、公聴会の開かれた委員室は、報道関係者や議員秘書、国会職員等傍聴人をふくめて正に立錐の余地もないほどであった。  
 それというのも参考人(公述人)は各界を代表する顔ぶれであり、しかも、その中に当時芸能界を代表する名優といわれた水谷八重子さんが出席するとあっては、なおさらのことであった。
        (第48回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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