実録・戦後放送史 第52回
「公聴会・阿部真之助氏②」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
公聴会で阿部真之助氏は更に「公共性とは何か」について次の様に話した。
「ある委員からは、民間放送だと非常に公共性の幅が狭くなる、といったようなご議論もあったようでありますが、実をいいますと、今のような政府もしくはある公共団体が経営するがゆえに公共放送であり、民間の事業であるがゆえに非公共的であるという見解は、実は私は大変形の上にとらわれた議論のように理解されるのであります。
民間人が経営するものはみな非公共的であるという議論の非根拠的なものであることは、それならば新聞というものはすべて民間人の経営になるものであるから、新聞の公共性というものはないかというと、そうではない。
従来の経験によると、ある公共団体もしくは政府によって経営されるものが、かえって非公共的であるという場合がはなはだ多い。
公共の名によって民間を圧迫し、大衆を圧迫したという例は、この戦争以来われわれは耐え切れないほど味わって来たところであります。
ただ単に公共団体の経営なるがゆえに、これが公共的である。あるいは民間会社なるがゆえに非公共的であるというようなことは、まことに私は理由にならぬことだと思う(阿部さんは、あたりを睥睨(へいげい)するように、また公共性あるいは非公共性について阿部さんらしい持論を展開していった)。
何が放送の公共的であるかということは、放送の内容によってきまることであります。どういうことを放送すれば公共的であって、どういうことを放送すれば非公共的であるかということできまるのに、放送の内容がどういうものであるかということを、この法案は一つもうたっていない。
放送協会の方の要綱を見ると、放送協会は公共的の放送をやる、公衆とか公衆社会の福利のために放送するといいますが、それなら民間の事業は公衆の福利をまるで無視してもかまわないか。私はそんなものじゃないと思う。
いやしくも民間放送といえども、公共の福利を眼中に置かないような放送は、経営者が公共団体であると民間団体であるとにかかわらず、私は非公共的放送なりと言わざるを得ない。
ところで放送の内容を見ますと、この法案には何も書いていない。どういうことを放送することが公共的であるかということが説明されていない。
おそらく民間放送と協会の放送が始まった場合においては、内容はあまりかわらぬものができて来るだろうと思う。
浪花節のようなもの―というと浪花節語りの人に怒られるかもしれないけれども、浪花節のようなものでも、放送協会がやれば公共的放送であって、同じ浪花節が民間の業者によって行われた場合には、それは非公共的なものであるというような解釈は、私は成り立たないと思う。この点についてこの放送法案は何も語っていない(後略)」
阿部さんはこのように言って、いわゆる概念論に釘(くぎ)をさした。
(第53回に続く)

国会審議と並行し業界では受信機改善の話し合いが持たれた
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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