実録・戦後放送史 第54回
「公聴会・技術、経営面からも意見②」
第1部 放送民主化の夜明け(昭和25年)
二月七日の公聴会は、このあと読売新聞論説委員の梅田博、北海道放送設立準備委員の杉山達郎両氏の公述が行われた。
梅田氏は①NHKの経営委員会の構成について、全国八ブロックから代表を選ぶほか、文芸、芸能その他の職域から八人の計十六人とすることが理想的である。同時にそれは経営の才能のある者に限定すること②言論の自由と番組規制の問題は、それぞれの自主規制と良識にまかせるべきで、戦前のような官僚による統制は排除すべきである、と報道人らしい意見を開示した。
また杉山氏は、別所氏の後を受けたかたちで技術者らしいうんちくを傾けた。杉山氏という人は戦時中、華北電電の放送関係の仕事をしていたから、放送技術については、いわゆるベテランだった。彼は帰国後、北海道放送(現在のHBC)の設立準備委員をしていたが、昭和二十六年同社がラジオ局の免許を受け発足したときに技術部長となった。その杉山氏の名を一躍有名にしたのが、北海道地区のテレビ開設にあたっての置局(主送信所の設置場所)をめぐって活躍したときのことである。
昭和三十一年郵政省は札幌地区にNHKとHBCにテレビのチャンネル割当を行ったが、送信所の設置場所をめぐって、両者間で一時紛糾したことがある。両者とも最初は札幌市近郊の藻岩山を第一候補にあげたが、その後NHKは市内に観光塔を兼ねたテレビ送信塔を建設する方針を固め、これに対し杉山氏(HBC)は電波の効率的利用をはかるためにはマウンテントップ方式をとるべきだと主張し、手稲山(海抜一千三十二メートル)こそ最適であるとゆずらなかった。この問題は郵政省をも巻き込んで両者間で長い論争が続いた。
結局、郵政省はHBCTVを手稲山頂に、NHKには当面市内大通りにテレビ塔の建設を認める代りに、五年後には手稲山に移設するという条件付きの裁定を下した。
これが手稲山をして今日のアンテナ銀座を現出させるもととなったのである。私も当時、杉山氏の情熱には打たれるものがあった。
そして杉山氏の案内で悪路峻険、雪中の手稲山項に歩を運んだ思い出がある。
さて、杉山氏は多くの経験を基礎にして、公聴会の席上では、送信電力と電界強度についてうんちくを傾けた。
「たとえばNHKの送信電力を百キロワット、民放を十キロワットとすると十対一の比率となり、これでは民放の経営はできないという意見があるが、それは出力だけの問題であって、電波の強さはそういうことで標準にはならない。 十対一のレートは三対一である。一に対する三であっても空中線の能力とその構造等によっては(民放も)十分経営できる」と具体的にわかり易く説明した。
つまり他の民放設立計画者が、NHKの送信電力が強大で民放への割当が微小では経営できない、とする議論を押さえるような発言だった。
(第55回に続く)
この記事を書いた記者
- 放送技術を中心に、ICTなども担当。以前は半導体系記者。なんちゃってキャンプが趣味で、競馬はたしなみ程度。
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阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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