実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第84回

「全国30社から申請」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)

 
 さて、問題の民放免許の申請は1月10日の締め切り日までに申請書を提出したのは次の30社であった。
 ▽関東地区=10社(東京9、鎌倉1)▽近畿地区=9社(大阪5、京都2、神戸、姫路各1)▽中部地区からは名古屋、金沢、富山の各1社▽九州地区=2社▽中国地区=1社▽東北地区=4社(仙台3、弘前1)▽北海道地区=1社という実情だった。

 これらのうち名古屋、北海道のように早くから申請が一本化され、会社設立も終わったところは問題なかったが、お膝元の東京地区は「ラジオ東京」は別として他の競願(8社)をどのように一本にしぼるか、また大阪、東北の一本化も容易なことではなかった。
 しかも前にも述べたように、5人の委員が2月10日に渡米するということもあって、僅か20日足らずの間にこれらの免許処分を行わなければならないという〝足かせ〟をはめられた電波監理委員会は苦渋に満ちた毎日だった。

 「こんな不可能に近いバカげたことってあるんですか」野次馬のようにいう私に網島副委員長も、むっとした顔をされて「しかし、やらざるを得ないんだよ」とニガリ切った表情で、「このため各委員が手分けして全国各地に飛んで実情調査を行う」と次のような計画を打ち明けられた。

 その計画によるスケジュールとは次のようなものだった。

 まず1月12日から約20日間の日程で▽東北・北海道へは瀬川委員と長谷電波監理長官(瀬川委員は13、14日に仙台、16、17日札幌へ、長谷長官は13、14日仙台、16、17日札幌、18、19日再び仙台へ)▽近畿・中国地区には網島副委員長▽名古屋、大阪、姫路、中国地区へは岡咲委員▽九州地区は上村伸一委員が担当して実際の調査を行った。

 この調査は、多少日程のズレもあったが、2月3日までに一応終わり、おのおのが結果を持ち寄って分析をはじめたものの、到底1週間ぐらいで予備免許のメドなどつけられるものではなかった。

 そこで富安委員長はCCSにバック局長をたずねてこの間の事情を刻明に説明するとともに、委員の渡米を2カ月ほど延期して欲しいと要請した。その理由としては大阪の免許処理が容易でないなど、いくつかの理由があったのである。
(第85回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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