実録・戦後放送史 第88回
「東京地区統合の動き③」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)
さて、昭和25年9月初旬、富安電波監理委員長から〝暗示的〟な依頼?を受けた私は、原安三郎氏と面会する前に、真っ先に東京西銀座7丁目の角にあった電通ビルに、吉田秀雄日本電報通信社社長を訪ねた。当時、民放誕生のキャスティングボードを捏っていたのは彼だったからだ。
吉田氏との付き合いは昭和15年頃からで、彼が電通の総務部長をしていた当時からだから、なんでも言い合える仲だった。通称〝デコちゃん〟といわれたこの快男児は、もうそのころは自慢の額がますます広くなり、表情に精悍さが加わっていた。
来意はあらかじめ告げてあったので、対座するやいなや私は「東京の民放ラジオは、今のところ1局しか免許しない方針のようであり、それには申請者が大同団結しないと、行政も手の打ちようがない。そのためには、あなたがイニシアティブをとるべきと考える」と率直に合併の促進役をたのみこんだ。
すると彼は「もちろん、わが社(われわれ)だけでやろうとは思っていない。僕としては、むしろ他の人にやってもらったほうが(商売)がやり易いとさえ思う。あんたの言うように、みんなで一本になることが一番いいんだが、要は新聞の連中が面子(メンツ)にこだわってネ」と本音を吐いた。「だから、それはあんたの出方次第ですよ」私は遠慮なくそう言うと、もう一度彼の顔をのぞきこんだ。
いささか乱暴な言い分だったが、私は何かに引き込まれる感じだった。我ながら〝若さ〟から来る気負いを承知の上で、大上段に振りかざした。はっきり言って誰からも正式に依頼されたわけではなかったが、行政当局の苦汁に満ちた毎日を痛いほど知れば知るほど、乃公(だいこう)出でずんばの功名心が頭をもたげたのもたしかであった。
「この件について2日後に原安三郎氏に会い〝統合のあっせんを依頼する〟約束となっている」ことを告げると、「ほう、原さんとね」と、吉田氏は、あらためて私の顔を見直した。そして、まんざらでもないという印象を受けたのは、この瞬間であった。「原さんがお引き受けになればね」と吉田氏は、初めてひと膝乗り出したのである。
「万事期待しております」と別れ、その足で、正力氏に面会を求めるため目指す野村ビルに向かった。
(第89回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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