実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第89回

「東京地区統合の動き④」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)

 正力氏に面会を求めると正力氏は「そのことなら鈴木君に会ってくれ給え」という返事だった。

 鈴木君こと鈴木恒治氏は有楽町の読売別館(現在の〝そごうデパート〟のあるところ)の一室に「読売放送設立準備室」の看板を掲げ、二、三人の職員と同室していた。

 来意を告げ、電通の吉田氏と会った時と同様に「とにかく東京の申請が一本にまとまらないことには、〝電監〟でも手の打ちようがないので」と、単刀直入に切り出した。

 「まだ電監では、免許についての規則もできていないようですなぁ」

 鈴木氏は余り気乗りのしない態度であった。

 「放送局開設の根本的基準が決定するのは12月初めと予想されるが、電監としては、それまでに東京地区の免許の目算をつけて置きたいようですよ」

 私は電波監理委員会の放送局免許に関する事務的手続き(規則類制定)などについて説明しながら、四社の合併を打診した。正直なところ、その時の鈴木氏の態度からは「なにがなんでも読売で」という気魄に欠けるものを感じとった。つまり鈴木氏は、心なしか奥歯にモノの挟った口ぶりであり、逆にいえば合併に〝脈(みゃく)があるな〟という印象であった(注・この頃すでに正力氏はテレビに没頭していた)。

 読売を出たあと数寄屋橋畔の朝日新聞社に向かった。今にして思えば、昔は便利だった。有楽町界隈には各新聞社が軒(のき)を接しており、読売と朝日新聞は目と鼻の先にあった。

 朝日新聞では杉山勝美君と会った。彼とも週一度か十日に一度は会う仲で、日頃から情報を交換したり、腹のさぐり合いを繰り返えしたりする間柄だったから要談は簡単に進んだ。

 彼は「その件なら明日、永井と会って下さい」という。

 永井氏というのは、当時朝日新聞では経営企画などを一身に負っていた人物である。伊達正宗ではないが〝独眼竜〟の仇名の持主で、放送問題などは総じて彼が担当していた。独眼竜の由来は、彼がいつも右目に眼帯をしており、体軀堂々とした闘将といった風貌のせいでもある。

 「その話は、毎日さんにしてもらいたいね、香苗さんは何と言っとりますかね」

 香苗さんというのは、のちに毎日新聞会長となった田中香苗氏のことで、「ラジオ日本」の実質的推進者であった。

 このため朝日も毎日新聞を目の上のコブのようにしていた。しかし、永井氏との感触でも「なにがなんでも」というほどでないことを知ると、明日会う原さんとの会談に、よい土産ができたような気がして思わず肩の荷が軽くなる思いであった。

(第90回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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