実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第90回

「東京地区統合の動き⑤」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)

 あくる日はよく晴れた残暑で蒸しかえるような日であった。小石川の近くにあった日本化薬の本社は、当時木造2階建ての古めかしい建物であった。

 「やあ」と気軽に席を立たれた原安三郎社長は、そのとき開襟シャツに黒っぽい夏服を羽織り、しきりと白扇で風を送りながら、〝若いなあ〟という顔で私を見つめ、「あなたが阿川さんですか。A君や瀬川さんから貴方のことは聞いていますよ」というのが開口一番だった。

 「ぼくに頼みがあるというのはラジオのことかね」先方からこう口を切ってもらうと、こちらもラクだ。私は「いま商業放送の免許について電波監理委員会で頭を痛めているのはご承知のとおりですが、とくに東京地区の申請が多くて、お手上げのような格構になっているからです」と、経緯を説明すると同時に、「原社長のような方が、一本化の斡旋役になっていただければ、事は案外円満に運ぶものと思います」とズバリ本論に入った。

 「そんな大役をワシにやれというのかね。依頼人はどなたですか?こんな話は長谷君(注・当時の電波監理長官)あたりが纏めるべきだが、そうはいかんのかね」、「これが私の仕事と思っておりますので、よろしくお願いします」と椅子から立ち上がって私はあらためて頭を下げた。「キミも変わった男だね」と、原さんは、まくしたてるような私の顔をしげしげと見つめて言った。

 私は前日までに電通の吉田社長、読売、朝日新聞、ラジオ日本の田中香苗氏らと面談したときのことを具体的に説明し、原さんの出馬を要請した。私という人間は、交渉ごとに入るときは、先ず自分が裸になることだった。最初から自分がハダカになれば怖いものはないし、そうすることによって相手にも裸になってもらえるという信念である。ことに依頼ごとなどする場合、相手方に警戒心など持たすことは、かえって失礼に当たる。これが私の人生観でもある。原さんと向き合って私は、まず自分がどのような人間であるかを一部始終打ち明けると同時に、私の略歴から電波タイムズの信条まで得意顔で話し、こんどのことも私の発意であると付け加えた。

 さて、原さんとの会談は約四十分近く続いた。最後に原さんは「いろんな人からも話がある。しかし君の熱心さにも魅かれるものがあるよ。よくわかりました」と私の依頼を快諾された。

 「有難うございます。失礼ながら国のため、放送界のために、万事よろしくお願いします」
 私は原さんに深々と頭を下げると、三日間にわたる苦労がむくわれたような気がすると同時に、富安先生らの笑顔が目に浮かぶようだった。

(第91回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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