実録・戦後放送史 第91回
「東京地区統合の動き⑥」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和25年)
やがてその数日後、原安三郎氏と電通の吉田秀雄社長が秘かに会談した、というニュースがもたらされた。耳打ちしてくれたのは周藤二三男氏であった。
周藤氏は、当時電波監理総局文書課の広報係長をしていた。彼は富安風生門下の高弟で俳号を岸墨二楼と号し、後に「春嶺」句会を起こし、そこの主宰となり、後年惜しまれつつ他界されているが、生前は「よみうり俳壇」の選者としても有名であった。
彼と私は〝ザル碁〟の仇同志で、在官中の昼休み時間などは、正に寸暇を惜しんで〝黒白〟を争う仲であり、夜は夜で新橋のおでん屋「お多幸」などで一献汲み交わすという忘れ得ぬ人であった。
その周藤氏が「あなたが原安三郎さんと吉田電通社長との会談の仲を取り持ったそうですね」と、こともなげに語り出した。
「いやー」私は素知らぬ風情をとったものの、周藤氏は「すべてわかっていますよ」とばかりに饒舌になり「近い内に四者会談も実現するらしい。いずれにしてもあなたは電波行政の蔭の功労者ですよ」と、生真面目な表情をして私を持ち上げる。これも菊正宗とおでんによる気のゆるみがあったのかもしれない。
周藤氏は風生師の側近であり電波監理委員会の「広報係長」ともなれば、委員会内部の雑談的会話にまで精通していたから当然だと思った。
周藤氏のことば通り、それから間もなく原さんの呼びかけで、朝、毎、読三新聞社のトップに吉田電通社長らを交えての申請統合の第一回話し合いが開かれた。十月に入ってからである。しかし最初統合に強硬に反対したのは毎日新聞側だった。
「冗談じゃない。ぼくらは既にスタジオまで用意している。しかるに看板だけ掲げて、何の準備もしていない朝日や読売と一緒になること自体が不自然だ」。
これに対して朝日、読売側両代表も負けていない。
「スタジオなんか免許を取得しさえすれば、直ぐにでもできるんであって、そんなことは理由にならん」と〝白紙撤回〟を主張する。
「まあまあ、その話はー」
原さんと吉田氏は、三者をなだめる役に回った。
「そんなことより〝しょうばい〟(経営)のことを皆さん考えて下さい」原さんがそう言って急所を抑えたことから話は急転直下となった。加えて吉田電通社長の「いま放送事業を始めて、どれ位スポンサーが付くとお考えですか?」との発言に一座はシーンとなった。
結論的にいうと、上記4社の合同一本化のための正式な世話人会が開かれたのが昭和25年11月18日で、「ラジオ東京」として免許申請が出されたのは翌年1月10日のことである。
その頃には「放送局開設の根本的基準」も、また「民放の免許方針」も示され、あとは予備免許を待つだけとなった。
(第92回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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