実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第92回

「東京地区統合の動き⑦」

 第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)

 余談ながら正式に会社設立が一番早かったのは中部日本放送(名古屋)の25年12月15日で、免許申請も同月18日と、どこよりも先行している。

 さて、原安三郎氏の精力的〝一本化あっせん〟が奏功して、東京地区に二局のうちの一局「ラジオ東京」の設立気運は着々と実を結んでいった。

 どのような会社をどう造るのかについては、私の出る幕ではなかった。しかし、知人の別所重雄氏(ラジオ日本設立事務所在勤)から、細大洩らさずといってよいほど情報だけは入手した。それによると吉田電通社長の強い要請で、まず読売と朝日新聞が同意したため、毎日新聞側も折れざるを得なかったこと。

 但し毎日側は、すでに準備をほぼ終えていた毎日ホール内のスタジオを「現物出資のかたちで使用する」ことを条件とした。これには朝、読も一時は不満を表明したものの、さりとて両社とも具体的、物理的条件が出せず、しかも経済的見地からは〝これ〟を使用せざるを得ない、ということで一件落着したという話。

 次に新会社のトップ人事(とくに社長)を誰にするかでは、当時の財界有力者との間で談合した結果、王子製紙の社長であり東京商工会議所会頭の足立正氏に内定した。

 また、足立社長を補佐する専務取締役に毎日新聞社から鹿倉吉次氏を、また取締役には、旧申請四社から平等に役員等を割り振ることなどが内定した等々の報告を聞いた。

 かくして「ラジオ東京」設立のための第一回発起人会が正式に開かれたのが26年1月5日のことで、この日すべてのお膳立ができたため、申請書締切日の1月10日「株式会社ラジオ東京」として開設免許申請が電監に提出されたのであった。

 そのとき正式に決定したラジオ東京の主な顔ぶれをみると、社長に東京商工会議所会頭の足立正氏、専務に毎日新聞から鹿倉吉次氏、取締役として遠藤幸吉(電電公社北海道電気通信局長)、岡野敏政(読売新聞)、永井大三(朝日新聞)、原為三、原安三郎、村上義一、山本為三郎、吉田秀雄(電通)、監査役に石川一郎、野間正一氏。また主要部局長としては大沢寿一(総務局長・朝日)同次長森本太真夫(毎日)、島居博(郵政)、鈴木恒治(編集総務・読売)、田中良夫(経理局長事務取扱い)、吉田稔といったなつかしい顔が揃った。

 また、その頃テレビジョン委員会が設けられ鹿倉専務を委員長に、同準備局長に今道潤三氏らが後日選ばれている。

 因みにJOKRのコールサインは、島居博氏の発議によるもので、「ジョーカー」をひねったものである。かくて民放16社16局は昭和26年4月21日、予備免許が交付され、民放第一声は9月1日発せられた。

(第93回に続く) 
      

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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