実録・戦後放送史 第94回
「大阪で朝日・毎日が競合②」
第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)
その高橋氏と別れたあと、朝日の平井常次郎氏とあったが、平井氏も高橋氏と同様の意気ごみであった。
この高橋、平井両氏と会談した顚末に、自分の心証も交えて次のような一文を帰京する車中で原稿にまとめ「整理記者」に渡した。
「大阪の朝、毎両社に会った結果、両社の間に抜き差しならぬ感情の根深いものを感じた。それは、とても一般人には理解できぬ伝統と宿命からきているものであって、はじめから統合合併など無理な話であることがよく判った。もはや好むと好まざるとに拘らず、両社の決戦を待つ以外になかろう」と前置きして両社の意見を細かく伝えた。
まず、新日本放送高橋氏の話として「わが社は政財界の支持を得て、二十一年頃から会社の設立をはかり、すでに演奏所や送信所の工事も進んでいる。そこへ突然統合の話がとびこんできた。関さんからのお話でもあるし、われわれとしても真剣に取り組んできたが、どだい朝日の対応は無茶や。いまごろになって石井光次郎さんを社長に引っ張り出して圧力をかけるなんて虫がよすぎるよ。もうこうなったら聴聞会で徹底的にやりますよ」
朝日放送(平井氏の話)「あちらは申請が早い遅いを問題にしているようだが、それはおかしい。われわれも前から準備を進めており、免許が下りればすぐ工事にかかれる。〝新聞は別だが、放送は仲よく〟という関さんからのお話をお受けしたわけですが、あちら(新日本)から一方的に破棄を通告され、われわれは不信感がつのるばかりです、云々」
どちらの主張が正しいかは別として、両社の言い分は、まるで駄々っ児のようなものだった。
しかし、そこには両新聞社の長年にわたる確執というか、ライバル意識ムキ出しの姿勢が感じられた。かつて私自身も駆け出し記者時代から、このような薫陶で育ってきたことを、その時あらためて悟ったのである。
間もなく、こうした両社の空気を富安委員長や網島さん、そして聴聞を主宰する柴橋さんにも伝え「これは容易なことではありませんよ」と申し添えた。
もう一つ、両社が合併に応じなかったウラには、GHQの態度が微妙に働いていたことである。これは後年高橋氏に聞いたことであるが、高橋氏は朝日新聞の動きを察知すると同時にGHQ(CCS)の法律顧問・ファイスナーを訪問して「大阪も東京同様二局にしてもらいたい。そうしなければ、とても納まらない」と訴えた。朝日側も同様の動きをしたが、ファイスナーは「これを黙約したような心証だった」と高橋氏は語っている。
だから両社は〝いざとなれば〟と初めから統合のことを真剣に考えていなかったのかもしれない。しかし、いずれにしても電波監理委員会としては「行政の権威」にかけても、両社を思う存分たたかわせて決着をつけさせようと、優劣判定の聴聞という挙に出たのである。これを私は現代版大坂冬の陣と呼ぶことにした。
(第95回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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