実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第100回

「各地で民放誕生②」

第2部 新NHKと民放の興り(昭和26年)

 昭和21年以来、民間放送の免許にいたるまでの動きを紹介してきたが、正直に言ってあまり後味のよいものではなかった。

 とくにこのような問題にマスコミ(新聞社)が絡むと、国の政治や占領軍まで動かすことを知り、〝うすら寒さ〟というか鳥肌が立つ思いがしたものである。 

 だから免許を終えたあとの記者会見で富安委員長は
「私は、委員長就任以来、いつも関係方面から言われている“委員会の独立性”ということを、あらためて想起する。この重大な時期に直面して委員会に対する国民の信頼を、この際〝しか〟とつかまなければならぬことを痛感している」と、断腸の思いをこめて語っている。

 いずれにしても昭和20年9月、松前逓信院総裁が「溌剌たる民衆放送の誕生を」と民放誕生に火をつけてから、免許交付までに5年かかったことになる。

 このようにして日本における放送事業は、民間放送の誕生によって、公共放送と銘打った特殊法人日本放送協会(NHK)と、広告放送を主体とする一般放送(官用語ではこう呼ぶ)の二本立てという、世界でも類をみない体制ができあがったことになる。

 ついでに紹介しておくと、民間放送が始まったのは昭和26年9月1日のことで、そのトップを切ったのは名古屋の中部日本放送(CBC・JOAR=一〇KW)だった。

 この日CBCの放送は午前6時30分、放送開始のキーが入った。「中部日本放送、一〇九〇キロサイクルでお送りします。皆さん、お早うございます。こちらは名古屋のCBC、中部日本放送でございます。昭和26年9月1日、わが国で初めての民間放送、中部日本放送は、今日ただいま放送を開始いたしました」。この歴史的第一声を放ったのは宇井曻アナウンサーだった。

 私も招かれてこの日の朝、放送現場にいた。そして商業番組第一号として地元スポンサーなどの名が告げられたが、この中で最も印象に残ったのは、定刻午前7時の時報に合わせて「精工舎の時計がただいま7時をお知らせしました」であった。

 もう一つ忘れられないことは「CBCの放送はタダで聴ける放送です」という件であった。たしかにNHKの放送は受信料が課せられる。民間放送は広告料でまかなっているから聴取料は不要だ。「だが、こんなわかり切ったことを、ことさらにー」と、当時NHKの名古屋中央放送局長だった近藤重幸氏は、日ごろの温和に似合わずカンカンになった。

 さて、この日民放ラジオ第二号として大阪の新日本放送(NJB・JOOR)も、同じ9月1日正午から本放送を開始した。

 終戦記念日にあたる8月15日正午からのサービス放送で現場は十分に訓練されていた。しかし高橋信三氏ら幹部にとっては「これで、あの聴聞会における屈辱と、免許の際に朝日新聞との間につけられた差。その怨念を今こそ晴らすことが出来た」という気持ちで、いっぱいだった。

 かくて日本の民間放送にはじめて朝の光がさんぜんと輝いたのである。

 しかし、この時、早くもテレビをめぐる胎動がはじまっていた。

(第101回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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