実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第104回

「テレビの始まり①」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)

 さて、その当時わが国のテレビジョンをめぐる情勢はどうなっていたかというと、行政(電波監理委員会)は昭和26年8月初め「テレビジョン放送に関する方針」を打ち出し、国会では、この年の2月、議場内で実験放送を行うなどしたあと、「テレビ促進決議」を行うという程度だった。NHKがテレビ5カ年計画を作成し電波監理委員会に提出したのも、この年の10月27日のことだったことからも当時がしのばれよう。

 さて、正力氏(日本テレビ放送網社長)とNHKなどとの間に起きたテレビ免許をめぐる紛争を書く前に、日本のテレビジョン研究の歴史と各界の動きなどについて、少し解説しておく必要があろう。

 日本におけるテレビ研究の端緒は、大正13年である。生前親しくさせていただいた高柳健次郎博士の話によると「大正12年アメリカでテレビジョンが発明された翌年、私(高柳氏)は、浜松高工助教授として招かれ、そのときからこの研究を始めた。雲母板の上に墨で書いた『イ』の字を映し出すことに成功するまでに2年余り(大正15年12月20日)かかった。

 続いて『高多極管ブラウン管』を発明して映像を送り出すことに成功したのが昭和四年の秋です。これを翌年の5月に〝天覧〟に供する光栄に浴した感激は忘れ得ません」ということで、これが、そもそも日本のテレビの発端である。

 企業体として本格的にこれに取り組んだのはNHKである。NHKは東京郊外に技術研究所を開設したが、その研究項目の中にテレビジョンがあった。NHKはしばらくして高柳氏を招へいし本格的研究に着手したが、その目的は昭和十五年東京で開かれる予定だった「東京オリンピック大会」をテレビで放送しようという計画からである。

 残念ながらこの計画は政府命令で中止されたため果たせなかったが、戦後いちはやく研究は再開され、昭和25年2月25日、同研究所内に「東京テレビジョン実験局」を開設し、同年11月10日から週2回、1日2時間の割りで実験放送を開始。26年1月にはテレビジョン審議委員会を設け、28年放送開始を目途に放送実施の具体的検討に入り、この年の7月には古垣会長みずから編成局長春日由三、秘書課長栃沢助造両氏を帯同して約2カ月間アメリカ、イギリス両国の実情調査を行っている。

 一方、民間においてもテレビジョン事業を興そうという気運が次第に高まり昭和25年8月には早くも免許申請書を電波監理委員会に提出する者が出現した。この申請第1号は「日本テレビジョン放送協会(坂本弘道氏)」であった。坂本氏は免許申請を行ったその足で私(電波タイムス社)を訪ねてこられ、「もうこれからはラジオの時代ではありません」と、アメリカでの生活体験などを交えて話したことがある。

(第105回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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