実録・戦後放送史 第107回
「テレビの始まり④」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)
アメリカ方式のテレビを日本に持ち込もうとしたデ・フォーレストらの働きかけも奏効して、国務省やペンタゴン(国防省)さえも動かした。「正力とは何者か」ということになり、国務省はGHQに命じて正力氏の身辺を〝洗わせ〟、彼ならば、ということに決めた。ところが皮肉なことに朝鮮戦争(1950年)がぼっ発したため、この計画は一頓挫をきたしてしまった。
そうこうするうちに連合軍総司令部は昭和26年8月6日、「正力松太郎の公職追放を解除する」と発表すると同時に、アメリカ上院外交顧問ホルシューセンら3人を日本に派遣し、正力氏にテレビジョンそのものについて、また開設に必要な技術的諸条件などを指導させたわけである。
これらのことについて後年、網島毅氏(元電波監理委員長)に聞くと「そんな話は、噂としては聞くが、公式にはなんにも知らない」とのことであった。
いずれにしても正力氏は、私と会った翌9月4日、丸の内工業クラブで毎日新聞社長本田親男、藤原銀次郎氏らを発起人とした「日本テレビ放送網株式会社」の設立構想を決め新聞発表を行った。私もこれに出席したが、その中にホルシューセンら3人が立ち会っていたのが強い印象として残っている。
こうなるとNHKも、うかうかしてはいられない。私は正力計画が奈辺にあったのか、また正力氏と会談したときのことなどを含め、NHKの小松副会長や金川義之、春日由三、そして栃沢助造秘書課長らによく事情を話し「うかうかしていると、トンビに油揚げ(テレビ事業)を擢われますよ」と忠告した。
これに応えてNHKは、それまで世田谷区砧の技術研究所にあったテレビ実験局を、東京・内幸町の放送会館に移すのを決めたほか、26年9月のことであるが、春日編成局長自ら陣頭に立ち、放送文化研究所内に設けたテレビ番組研究委員会を駆使して撮影、照明から美術、演出にいたるまで、あらゆる研究に着手。10月からは週2回、1日3時間の実験放送を開始するなど懸命であった。
そうしたところへ先手を打って日本テレビ放送網はテレビ開局申請書を電波監理委員会に提出した。26年10月2日のことである。こうなればNHKもこれに対抗しないわけにはいかず、10月27日にいたり東京、大阪、名古屋3局のテレビ局と、東京から大阪を結ぶマイクロウェープ中継局7カ所の開設を含む申請書を提出、正に日本テレビと4つ相撲を展開することになった。風雲急を告げるとは、このことといってよかろう。
(第108回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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