実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第116回

「テレビ標準方式を巡るメガ論争⑨」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和26年)

かくて3日間にわたった第1回の「メガ論争」は、19日午後の最終陳述をもって終了した。

 各利害関係者等の総括的意見として

①日本テレビ放送網=原案(6メガ)に賛成

②無線通信機械工業会=7メガ採用と暫定方式の採用

③日本コロムビア=白黒式と同時にカラーを含めてということであれば原案で差し支えないが、やはり画質をよくするという立場からいえば、〝工業会の主張〟と同じ(7メガ)である

④日本ビクターも7メガを主張

⑤松下電器としては、基本的には工業会の主張と同じであるが「テレビは国民のもの」という立場にたって慎重に決定していただきたい

⑥NHKは「ほぼ工業会の主張と同じであるが、方式決定にあたっては7メガを基本として日本テレビジョン技術の発展のため当局に慎重な検討を求めたい」

 以上は、いわば冒頭陳述のときの主張の繰り返しであった。電波監理委員会の最終陳述も「原案通り」主張するにとどまり、新味はなかった。

 この3日間を一部始終みてきた私としては、それらのすべてを詳述したい気持ちでいっぱいであるが、考えてみると、それには何力月もかかること。また、このメガ論争はこれで終わったわけでなく、後日委員会の6メガ方式の決定に対する「異議の申し立て」と、これに対する聴聞が再び行われるという事態に発展する。

 ただ、聴聞2日目に行われた天然色(カラー)テレビに関する審問の中で、再び6メガ論が激しく争われたこと、また議論の中で外国専門家との間に交わされた書簡や文献が引用されたりしたが、そうした折り、当局を代表して森本重武技術課長の「各国におけるカラーテレビの研究の現状」についての説明は詳細をきわめ、満場を傾聴させるものがあったことを付記したい。

 それにしてもこの聴聞は1月17日から3日間、審理官と利害関係者との間で延々と質疑が続けられ、あるときは検事と被告のように、またあるときは歌舞伎の「勧進帳」、たとえば安宅の関における〝富樫と弁慶〟の聴聞の場をしのばせるような情景が展開され、満場を緊迫させ、また手に汗にぎらせる場面が次々と繰り広げられたことも、日本テレビジョンの方式を決めるという大事な中で忘れ得ぬ思い出として、今なお脳裏から消えることはない。

 私の拙い筆によるよりは、それらの全貌を把握していただくために、この聴聞会を主宰した柴橋国隆審理官が提出した「意見書」、つまり裁判でいう「判決文」を紹介して、大方の参考に供することが、もっともベターな方法と考えるので、次に全文を詳述することにした。

(第117回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

是非、感想をお寄せください

本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。