実録・戦後放送史 第119回
「テレビ標準方式で意見書③」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和27年)
あえていえば、この方式決定は初めからわかりきっていたようなものだった。
アメリカは、はやくから日本に対して国策的意図のもとにテレビ事業を推奨していた。とくにRACは10KWテレビ送信機の輸出が某国からキャンセルされたため、是が否でも日本への売り込みを熱望していた。
そのようなこともあって26年4月には電波監理委員4人と読売新聞柴田秀利記者を「研修」と称してアメリカに招致しテレビ知識を伝授しているほか、日本でのテレビ事業を正力松太郎氏に行わせるため公職追放を解除したりしている。6メガ方式による技術基準(標準方式)についても、委員会を指導したともいわれるから、なにをか言わんやである。
さて、前後するが、このようなメガ論争が行われている27年5月10日、政府は行政機構簡索化を目的とした法律案を国会に提出、同法案は7月31日国会で成立したが、この成立も吉田首相主導によるもので、法案提出は(既成事実承認)のようなものだった。
この法律の骨子は「各種行政委員会は審判的機能を主とするものを除き、これを廃止し、その事務は各省に分属せしめる」というもので、電波監理委員会もこの方針により7月31日廃止、電波行政は郵政省に承継され新たに「電波監理局」として新発足することになった。だから監理委員会としては、7月31日までに是が否でもテレビ局の免許を強行しようと焦ったのである。
また、この年放送法の一部が改正され、それまでラジオの聴取料だけであった受信料規約が改正され「NHKの放送を受信できる設備を設置したものは、NHKとその受信について契約しなければならない」、つまりテレビの受信料制度が、この年の6月17日施行された。
このような結果、テレビ放送の免許をめぐるお膳立てはすべて整ったわけで、既に申請書を提出しているNTV、NHKに加えラジオ東京(現TBS)や文化放送などが競って免許獲得に乗り出し、事態は正に風雲急を告げるのであった。
なお柴橋審理官は前記のように意見書で述べたあと、聴聞会を終えての感想を次のように語っている。
「いま静かに審理の経過を顧みると、今回の事案はむしろ〝白黒テレビ放送に関する送信の標準方式に関する規則〟というような単行規則のかたちで聴聞にかけたほうがよかったのではないかと思われる。そうして、その他の規定についても、いくつかの単行規則を制定し、あるいは現行規則を改正し、必要あれば、ある時期において、これを統合すればすっきりした法規となったであろう」と。
(第120回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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