実録・戦後放送史 第120回
「テレビ標準方式で意見書④」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和27年)
また、この聴聞の補佐審理官をつとめた西松武一氏も、意見書の中で「異なる意見」として次のように述べている。
「私は当初から本事案は技術的内容をもったものではあるが、社会的経済的観点に立った審議が主流をなさなければ決定的な結論が得られる性質のものではない、という判断と主張をもっていたのであって、これを範囲外としたり、仮定を設けたりした審議による調書に基づく意見書を提出することは本意としないところである云々」
つまり、柴橋、西松両審理官とも、日本で新たに出発させようとするテレビジョン放送に対して、たとえそれが技術的基準であっても、およそテレビに関する社会的、経済的その他もろもろの関連問題を審議することなく(免許方針まで)決定してしまうことは時期尚早であると結んでいる。しかし、当時の情勢は、そうした合理論というか、ごく〝当たり前〟の正当論も無視されてしまった。
以下は私の意見と憶測であるが、占領国(とくにアメリカ)は、はじめから日本にテレビジョンを売り込む方針を固めていた。とくにアメリカRCA社では某国への輸出を予定していた10KWテレビ送信機がキャンセルされたことから、これを強引に日本に売り込もうと懸命であった。また、前にも書いたようにアメリカ政府は「国策」の一つとして占領中の日本にテレビ事業の開始を強要し、しかもその事業を正力松太郎に(公職追放を解いてまで)ゆだねようとした(形跡がある)。だから電波監理委員会にも「意をふくめて」標準方式もアメリカと同じ(6メガ)を採用させようとしたと解釈している。
こうした意図をもっともよく知っていたのは富安謙次電波監理委員長だった。だから富安さんは〝メガ論争〟を前にした昭和26年、暮れも押し詰まった12月末にいたり、表面は健康を理由にして吉田茂首相に辞表を提出した。
〝辭意の字のむづかしかりき冬夕焼〟この句に富安さんの心中がうかがえるのである。
その頃の国民的話題としては「日本でテレビジョンの本放送が始まるのは、いつごろか」また「事業者として免許されるのはNHKか民間放送か」が重大関心事であった。
もちろん、われわれジャーナリストとしては一刻も早くそれらの情報を的確に把握して、読者に伝える責任があった。むしろこのことは電波監理委員会自身にとっても、いわゆる焦眉の急であった。7月31日に委員会制度が廃止されるというタイムリミットを前にして各委員の焦りは側(はた)でみていてもよくわかった。
(第121回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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