実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第121回

「NHKか日本テレビか①」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和27年

 記者稼業をしている以上、当時の私を待ち構えていたのは、テレビ免許の動きをだれよりも先に情報入手しなければならないことだった。

 電波監理委員会の誰も、当然のことながら確たる心証を与えてくれない。ただ、5人の委員のうちで「旗色を鮮明」にしていたのが瀬川昌邦さんだった。「わたしは免許するんだったら、NHKが先だ。それが筋道だよ」と、ハッキリ言われる。

 またもう一人の坂本直道さんは「一緒(NHK・NTV同時)でいいではないか」という。そのころ坂本委員は健康がすぐれず、家庭訪問すると、昼間から蚊帳(かや)の中で休んでいた。

 反対に抜山平一、岡咲恕一両委員は(私の想像では)初めから日本テレビを単独でも免許しようという意志を固めていたようだった。

 
 したがって残るのは網島委員長の決断だけである。だが、その網島委員長本人の態度は実に慎重というか、不可解であった。

 そんなこんながあって昭和27年も7月中旬を迎えた。いつものように廊下トンビをしているとき思いがけない情報が入った。

 網島委員長が岡崎官房長官から呼び出しで「吉田首相のもとへ政務報告に参上した」というのである。遂に来たるべきものがきた。私は胸を踊らせながら網島委員長の帰りを待った。

 網島さんが総理官邸から青山庁舎にかえったのは午後になってからだった。「キミも地獄耳だネ」網島さんは苦笑しておられたが、「放送法の改正とか、放送局開設の根本基準の改正など一連の作業が終わったので、これらの問題をくわしくご説明してきた」と話す。それだけだったのだろうか?そんな筈はない。

 私はしつこく突っ込んで質問すると、「帰りぎわに総理から〝正力のオヤジがうるさくてかなわんよ〟といわれてネ」そう言ったあとで網島さんは、すぐにハッとされたように「これは内密だよ」と言われたが、日ごろ親しい間がらか、思わず漏らした一言だったに違いない。しかし私としては〝鬼の首〟でも取ったような気持ちになった。これでテレビの免許主体は決まったな、と直感したのだった。

 同年7月17日付の電波タイムズ紙上に私は、「テレビ免許は民営が先き?」と、あえてクエッションマーク付きの見出しで、解説的な記事を書いた。

 それまでの経緯と流れ、網島委員長の吉田首相への「政務報告」などを加えたものだったが、吉田首相の「正力のオヤジがうるさくて」の件は一言も触れなかった。が、果たせるかな、この報道は各方面、とくにNHKには大きな衝撃を与えた。小松副会長から直接電話があり、続けて古垣会長から「会いたい」と言ってきた。そして事情を説明する私に対し、「そんな筈はない」と怒りを新たにするのだった。思えば昭和15年の「陸運統制令」のとき以上のスクープだったと思う。

 だが、私としては最後まで、よもや電波監理委員会がNHKの存在を無視して、正力テレビのみに免許を先行するとは考えてもいなかった。さきの瀬川、坂本委員の言質からしても、また一般常識から考えても、網島委員長がそんな無謀に近い決定をするとは考えられなかったからである。

 しかし、事態は急転直下、やがて「運命の日」7月31日を迎えるのである。私はその前夜、網島委員長邸を訪問した。私がその夜、懇願的に網島さんに言ったことは二つある。一つは「免許は常識的にみてNHKとNTVを同時に行う。もしそれが困難なら両者とも保留にし、処分は郵政省にゆだねる。それが最も適策と思う」と訴えた。それが一番理に叶う方法ではないか、事務当局も、大方の意見も同じだというと網島さんは、「そうはいかないんだよ。もう方向は決まっているんでね」という答えであった。そのとき時計はすでに7月31日午前2時を指していた。

 日本のテレビジョン放送局の予備免許が行われたのは(重複するが)昭和27年7月31日のことである。
(第122回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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