実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第122回

「NHKか日本テレビか②」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和27年)

 日本のテレビジョン放送局の予備免許が行われたのは、繰り返しになるが、昭和27年7月31日だ。この日は朝からよく晴れた暑い日であった。東京・青山の電波監理委員会庁舎は、朝から報道陣や免許申請者などでゴッタ返していた。

 そのような人波を分けるように網島委員長の車が、いつもと反対の方向から入ってきた。この朝、網島委員長は、吉田首相や保利官房長官に〝最後の報告〟を済ませての登庁だったと推察する。

 この日歴史的な免許処分を行うための委員会は定刻午前10時から開会されたが、委員会室の扉は一日中固く閉ざされたままで、時折、委員に呼ばれた職員が出入りするだけというものものしさだった。

 そうした中で私は妙な噂さ話を耳にした。「長官が朝から行方不明」だというヒソヒソ話を女子職員が交わしている。まさかと思っていると私のところ(記者クラブ)へ文書課長の荘宏さんが訪ねてこられ、何か意味ありげな顔をされる。咄嗟に私は〝特ダネでも〟と思いながら荘さんの部屋に同行すると、荘さんは「長官の居場所をご存知ありませんか」思案に余ったように、また切羽詰まった顔で言われる。「そういえば朝から長官の顔が見えませんね」そんな呑気なことをいう私に「長官がおられないと、すべての書類が処理できません。あなたならご存知かと思いましてね」と荘課長は真剣な顔で相談されるのだった。

 聞けば長谷電波監理長官だけでなく10数名の部課長が辞表を提出し外出したままだという。「我々も百方手をつくしたのですが」といわれると、私も放っておけなかった。日頃から親しくしている荘さんを見るにしのびず、私は私なりに長谷長官の立ち寄りそうな場所を片っ端から探してみた。巷間よくいわれる蛇の道はヘビのたとえ。ようやく長谷さんが都内某所に居ることを突きとめた。

 「ぼくは、あのような処分(免許)には反対なんだよ」と、興奮気味にいわれる長谷長官に対し、諫めたり、むしろ懇請したりして、ようやく重い腰をあげさせることに成功したのであるが、実のところ私も長谷長官の心中と同じだった。

 だが、あの日の流れは誰にも止められないものを感じたのである。
(第123回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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