実録・戦後放送史 第123回
「NHKか日本テレビか③」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和27年)
長谷長官は、網島委員長直系の、また後継者でもあり、しかも明日(8月1日)から発足する郵政省の初代電波監理局長就任がすでに決まっていた。そして側近の故もあって、委員会の免許方針についてほぼ知っておられたのである。
さらに、あえてその裏話を披露すれば、〝長官の頭越し〟に、ある事務当局者は免許処分に関する文書の立案を命ぜられていたようだ。そうしなければ、この日の免許に間に合わないからだが、長官もそのことを知っていた。だから「日本テレビ放送網に予備免許。NHK、ラジオ東京の免許は保留」とするお膳立てはすでに出来上がっていて、事務当局は、その理由説明や発表文書の起草まで進めていたフシがある。
以上のような事態に対して長谷長官としては、このような免許方針は不満であり、まして決裁印を押すようなことには耐えられなかったのだと思う。
このことは後日、長谷長官の口から直接聞いたことがある。長谷長官は「電波監理委員会が〝最後の仕事〟とし、テレビの免許処分をしようとするそのこと自体には理解する。しかし日本テレビにだけ免許を与え、他を(とくにNHKを)除外するようなことは理にかなわないし国民も納得しないであろう。もし免許を強行しようとするならばNHKと前者を同時に、あるいは両者を留保にして、新しく生まれる郵政行政にゆだねるべきではないか。テレビ事業の特質と重大性を考えたとき一日が待てないはずがない。まして委員会全体の意見が纏まっていない」という主張であった。
そしてこれを網島委員長らに進言したのだったが結局は容れられなかったのである。しかし、このようなことにはお構いなしに電波監理委員会は、かねての予定どおり「初志貫徹」し免許を強行した。
一、日本テレビ放送網会社に予備免許を与える。
一、日本放送協会の免許は留保する。(理由=NHKはテレビジョン放送に関する予算措置を講じていない)
一、ラジオ東京に対する免許を保留とする。(理由=ラジオ東京は、まだラジオ放送を開始したばかりで、財政的根拠に乏しい)大要以上のような要旨であった。
記者会見の席上で某新聞社の記者が「委員会室の時計が停っているぞ!これは無効ではないか」と大声で叫ぶ声が聞こえた。たしかに、その「時刻」については私も覚えているが、すでに時計は8月1日午前0時20分を指していた。
「決裁とか文書処理に時間がかかりましてね。しかし、決定は11時40分でした」荘文書課長は毅然としてこう釈明した。
思えば、昭和26年秋から発生した、わが国のテレビジョン放送免許をめぐる歴史は多くの話題を残しながらも、約1年という短時日のうちに、波乱を含んだ〝第一幕〟にピリオドが打たれたのであった。
いままで、メガ論争をはじめとして、免許にいたるまでの多くの紆余曲折というか激しい嵐の中を、私自身ミイラ取りのミイラになって、いわば事件に巻き込まれながら、その一部始終を見つめてきたが、考えてみれば〟この芝居は〝初めから筋書どおりというか結末はわかっていたようなものだった。しかしあらためて正式な結末を知らされたとき、なんとも重苦しい後味の悪いものだけが残った。
免許決定後すぐに私は電波監理委員会庁舎から内幸町の放送会館(NHK)に急いだ。どんな挨拶をしてよいか迷いながら5階の応接間に入ると古垣会長以下多くの幹部役員は憮然としたままで、誰一人会釈するものもいなかった。
居いたたまれなくなった私は、その足で読売新聞社を訪ねると、ここは正に反対のお祭り騒ぎだった。正力松太郎社長が快気炎で記者連中をまくし立てている姿が好対照だった。
もうそのころ短い夏の夜は白々と明けようとしていた。
(第124回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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