実録・戦後放送史 第125回
「NHKテレビ放送開始①」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和28年)
さて、今回の免許問題を「日本のテレビの幕開け」と呼んできたが、今までのことは、いわば正力テレビというか日本テレビ放送網会社の予備免許にいたるまでの経過をひと通り流してきたに過ぎない。このような意味からすれば、これまでは黎明期であって、日本のテレビジョンの〝ほんとうの夜明け〟は、昭和28年2月1日と断言してはばからない。
つまり、この日NHKは国民の待望久しかったテレビジョンの「本放送」を、誰よりも魁て開始したのであった。しかも、首都圏だけでなく、大阪、名古屋の三局も同時開局したことは、正に画期的な快挙であった。
画期的であり快挙というのは、NHKが苦心のすえ完成した「東・名・阪マイクロウェーブ回線」によって、日本の三大都市をリアルタイム(同時刻)で結ぶことに成功したことである。いわば日本のマイクロウェーブ中継の〝はしり〟が、すなわち28年1月11日のことである。
この「東・名・阪マイクロウェーブ」は、NHKと東芝が共同開発したもので、東京~大阪間を九つの中継所で結んだ(最初は下り一回線のみの)ものであった。しかし、この回線によって東京~大阪間は瞬時にして結ばれたばかりでなく、やがては電電公社の公衆通信全国中継網の発展へと結びつくのである。
この「東・名・阪マイクロウェーブ回線」の建設は難航をきわめた。NHK技術研究所と東芝は総力をあげてこれに取り組んだ。なにしろわが国初めての実用化である。マイクロの特性からマウンテントップ方式が採用されたが、東京から大阪にいたる中継点(山項)の選定と施設工事は、今日のような近代的機器や建設資材もなく、また中継機等の調整等の苦労は筆舌に尽くせぬものがあった。電波監理局の西崎太郎氏(当時の課長)も「果たして開局予定に間に合うだろうかと心配した」と、語ったことがある。
そうした送信中継関係のほか、首都圏一帯にテレビ電波を発射するための送信空中線(放送会館屋上に設置)の製作や設置がまた大変だった。
この仕事の直接担当を命じられたのは藤島克己氏(故人・元副会長)である。藤島氏は生前、私にこんな話をされたことがある。
「東京一円にテレビ電波を届けるためには地上高にして100メートル位のアンテナ鉄塔を建てなければならないが、強度の関係などからアンテナ(鉄塔)高を30メートルにした。これは会館の高さと合わせて73.3メートルです。ところが、これが突貫工事になるので引き受けてくれるところがなくてね。そこで無理を承知で加藤さんに頼み込んだ」
加藤さんというのは、そのころ外地から引き揚げて鉄塔施工会社(加藤電気工業所)を興した加藤幸之助(故人)だった。鉄塔からアンテナまで一括受注した加藤さんは〝突貫工事〟どころか徹夜で藤島氏に応えた。けだし日本のテレビ事業開始の先駆的役割を果たしたのが藤島氏と加藤氏である。
かくしてNHKは一切の準備を整えて2月1日、わが国で初めてのテレビ本放送を開始したのである。
(第126回に続く)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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