実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第126回

「NHKテレビ放送開始②」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和28年)
 NHKが苦心のすえ完成した「東・名・阪マイクロウェーブ回線」。これら送信設備の工事落成検査に当たって電波監理局職員の苦労の一部も紹介して置きたい。
 一般の無線局の検査とは勝手が違い、放送会館などの局内設備のほか、山項にあるマイクロ中継所施設などの検査は、すべて初ものづくしだったからだ。
 「途中雨に降られたり、山道が夜になったり、期日は定められているし…」実際に検査を担当した某課長は、しみじみとこう述懐している。少し冗長になったが、これらのことは歴史的テレビ開局前夜のエピソードとして特に紹介した次第である。
 さて、昭和二十八年二月一日、NHKの(というより日本の)テレビ本放送開始の日を迎えた。この日は、寒中というのに微風快晴、温暖そのもので、天もこれを祝福するかのようであった。東京会場となった千代田区内幸町の放送会館前は数多くの花輪で飾られ、道行く人の足を停め、大通りを走る都電さえ徐行する。空にはヘリコプターが飛び交い、開局気分はいやがうえにも盛り上がった。
 わが国の文化史上に輝かしい一頁を開いたNHKのテレビ本放送開始の日は次のような情景だった。この日の情景は私みずからペンをとり、当時の電波タイムズ紙上で以下のように報道している。
 「昭和二十八年二月一日、わが国のテレビジョン本放送は、陽光燦とした東京・千代田区内幸町のNHK放送会館屋上から第一声が放送された。放送開始時刻は午後二時であった。
 この日、放送会館第一スタジオで盛大な開局式典が挙行され、まず古垣会長のあいさつ(式辞)に次いで緒方竹虎副総理(首相代理)、大野伴睦衆議院議長、佐藤尚武参議院議長、安井誠一郎東京都知事らの来賓は、わが国文化の先端をゆくテレビジョン放送の発足を祝い、また将来への普及発展への期待をこめた祝辞が披露された。また世界各国からの祝電などが寄せられ…云々」と記した。
 周辺の情景としては、寒中にしては雲ひとつない、よく晴れた暖かい一日であったこと。空にはヘリコプターが飛び交い、それが上野公園と日比谷公園を往復し、着陸しては子供たちに「祝テレビ開局」の風船を配る。また都内の電機商一千軒の店頭には「祝開局」の提灯が飾られ、新橋駅前広場や荒川区役所などではテレビカーで受像公開、また銀座松坂屋デパートに「NHKテレビサービス・ステーション」が開設された、ことなどが描写されている。
 さて、定刻午後二時、テレビカメラを前にあいさつに立った古垣会長は、半ば感激にふるえるような低い語調で「本日NHKは、日本の文化史上に画期的な一頁を開きます」と、NHKが今後になうべきテレビ放送の使命について訴えたのも印象的であった。
 開局記念番組として歌舞伎十八番「道行初音旅」が特設ステージで上演された。出演者は当時としては第一人者の尾上梅幸(静御前)、尾上松緑(狐忠信)、阪東彦三郎(早見藤太)ら豪華な顔ぶれであった。この舞台(特設ステージ)は横七間(二三・一メートル)縦三間(九・九メートル)という大がかりのもので、この模様はテレビの電波に乗って、関東一円はもとより、名古屋、大阪同時に放映された。
 これがテレビ放送の夜明けというか世紀の歴史的幕開きであった。因みに開局当時の放送時間は昼間一時間三十分、夜は二時間三十分の計四時間に過ぎなかった。
 また当時の放送電力(東京の出力)は五キロワット、チャンネルは三チャンネル一波だけだったし、視聴者の数も三千世帯に満たなかった。
 なお、NHKはこの日(二月一日)機構改革を行い、それまで編成局の内部組織であった「テレビジョン放送部」(吉川義雄部長)を「テレビジョン局」へ昇格独立させ、初代局長には編成局長春日由三氏を事務取扱いとし、局内の職制として企画、教養、芸能の三部を置いてスタートを切った。
     (第127回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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