実録・戦後放送史 第128回
「日本テレビ開局余話①」
第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和28年)
わが国のテレビ発達史のなかで日本テレビ放送網(NTV)の功績を忘れることはできない。なぜなら、NTVが名乗りを上げたことにより、わが国のテレビ本放送の幕開けが予想よりも速められたからであり、これによって国民生活を豊かにすると同時に、NHKとの併存により日本の商工業の繁栄と電子技術の急激な進歩発展を導いたからである。
すでに日本テレビの計画から開局にいたるまでの経緯等については紹介してきたが、もう一度往時を振りかえってみたい。
日本テレビ放送網の開局式が挙行されたのは昭和28年(1953年)8月28日午前11時のことだった。放送開始は11時20分からだが、この日麹町二番町の同社構内の屋外スタジオ(8百坪テント張り)式場には(古風な表現を用いると)朝野(ちょうや)の名士2千5百人が招かれた。
当日の主な賓客を紹介すると、内閣総理大臣吉田茂氏を筆頭に堤康次郎衆議院、河合弥八参議院の両院議長、塚田十一郎郵政相、大野伴睦国務相、芸能界代表中村吉右衛門、スポーツ界代表三輪善兵衛氏(丸美屋)その他数えきれないほどの各界各層からの人達だった。
残暑もきびしく、むせ返えるような会場であいさつに立った正力松太郎社長は満面笑みをたたえながら次のように決意を述べた。
「開局のこの日を迎えまして、私どもが念願いたしますことは、テレビの大衆化であります。これがため明るく楽しいプログラムを提供いたしますが、なにぶん、ご承知のごとく受像機は余りにも高いので、多数の家庭に備え付けることは、まことに困難でありますから、私どもはまず当社の資本において、大型の受像機を街頭の各所に設置いたしまして、テレビを大衆の中に溶け込ませ、漸次各家庭に普及させたいと思っております。かようにしてテレビを通じて我が国の政治、経済、文化の各方面に寄与するとともに、新しい広告宣伝の媒体として役だちたいと念じております」
およそ平素の正力さんらしくない謙虚さで心中を吐露したわけだが、そこには当時の実状(受像機普及の遅々たるさま)を率直に物語るものがあった。
次いで来賓の祝辞にあたった吉田茂首相は、白麻の平服のままの姿で、半ば皮肉を交えながら満場を哄笑させるあたりは、さすが政界トップの面目躍如たるものがあった。ノー原稿で次のように言う。
「テレビに関して私が祝辞を述べる資格は、実はないと考えるのであります。なんとなれば数年前と思いますが、マッカーサー元帥が東京におられた時分に、テレビの発明家から私のところへ手紙をよこされて「日本においてテレビをやりたいが」という申し出があったので、マッカーサー元帥に相談いたしましたところ(いま正力君のお話のとおり)各家庭がテレビを備え付けるには、あまりにも機械が高すぎて、日本の生活程度に合わんから考えるべきだという話で、爾来、私はテレビの反対運動をいたしておったのであります」と、この宰相は満場の人達のド肝を抜くような調子で語り出した。
「従って正力君からお話があったときもこれは正気の沙汰ではあるまいとまで申したのであります(満場咲笑)。それにもかかわらず、私どもの反対まで押し切って正力君が、この一大事業を完成されて、ここまで持ってこられたのは、ひとつに正力君の、なんと申しますか、企業心というか野心と申しますか、あるいは正力君一流の努力の結果と申しますか、この点において私は、正力君のために深く推奨いたすものであります。今後もいつに正力君の努力によって、このテレビ事業が、日本において完成されることを期待するものであります」(筆者のメモより)。
正に型破りのあいさつであった。通常ならば総理祝辞といったようなものは、あらかじめ事務当局が用意した文書をそのまま棒読みするのが半ば慣習である。しかるに吉田首相は、自ら前例を破って、ナマで心境を述べたことは、首相自身、なんらかの含みがあってのことではなかったろうか。
(次回は「アマチュア無線に関する特別編」をお送りします)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。