実録・戦後放送史 第129回
特別編「アマチュア無線再開」
昭和25年に実施された電波利用の民主化、すなわち電波の解放のなかの一大トピックスは「ハムの再開」つまり1952年のアマチュア無線の解放であろう。ここでは、アマチュア無線再開前後の諸情勢やそこにいた人々との交流などを中心に描いていきたいと思う。
日本のアマチュア無線が正式に制度化され、ひとり立ちの無線局として陽の目をみたのは昭和27年(1952年)7月28日のことである。
それまでの日本にはアマチュア無線という固有名詞はなく、「私設無線電信」あるいは「無線電話実験局」と呼ばれ、1923年(大正12年)ごろから呱々の声をあげたのであるが、そのころは“もっぱら個人的に無線技術を持つ者が、自己の訓練のため、かつ技術的研究を行う業務”として特定の人に許可された程度のものであった。
もちろん、この種の無線愛好家は当時から、かなりの数にのぼっていたのであるが、大正14年ラジオ放送の開始により手造りで受信機を組み立てる人が増え、それが自ら無線器の製作と運用につながり、やがて燎原の火のごとく全国に普及していった。しかもこれら無線愛好家が糾合して大正15年6月、JARL(日本アマチュア無線連盟)が結成されるにおよび全国の同志的結合がさかんとなっていった。しかし、昭和16年12月8日大東亜戦争ぼっ発とともに、その活動は一切禁止されてしまった。そして昭和20年終戦を迎えたものの、占領軍当局(GHQ)はその運用を一切認めなかった。
しかも1950年(昭和25年)になって画期的な法律と謳われた「電波三法」が施行され、電波の利用が民主化されたにもかかわらず、日本政府やGHQはアマチュア無線に限って堅く門戸を閉ざしていたのだった。理由は防諜政策(スパイ行為防止)によるものであった。
これに対して当然のごとくJARLをはじめ多くの無線愛好家や電気メーカー等から再開を望む声が湧き上がった。
そうした折り、まるで足下から火のつくような話が舞い込んできた。当時関東電波監理局に在籍していた徳間敏致さんが声を落とすように「アマチュア無線が再開できるように、報道機関として音頭をとってもらえないか」というのである。昭和26年ごろの話だった。このようなことはすでにソニーにいた笠原功一氏、菊水電波の梶井謙一さんなどからも同様に聞いていた。だが、電波監理当局の幹部に問いただしてみても「占領が解除されるまでは動けない」という返事が返えるだけであった。
そのような年の4月、日米講和会議がサンフランシスコで開かれ日本は晴れて独立国として国際社会に仲間いりすることが決まり、この機を逸しては、とキャンペーンを張ることとし、同年夏、電波タイムス社主催による座談会を開催するなどアクションを起こしたのであった。
このときの座談会出席者は梶井謙一(J3CC)、大河内正陽(J2JJ)、村井洪(JAIAC)、原昌三(JAIAN)の各氏であった。
この席で私は「なぜアマチュア無線だけが取り残されているのか」をテーマに各氏から“思いのたけ”を語ってもらい、無線技術発展のため、また民間外交の手段としても速やかにこれが再開をはかるべし、と主張し、持論を展開していった。もちろんJARLとしてもGHQをはじめ電波監理委員会に対し猛運動を展開したことはいうまでもない。
その結果はアマチュア無線技士の国家試験の実施につながり、免許再開の道がひらかれるのであるが、この年(昭和26年)は、日本にとって特記すべき出来ごとが相次いで起った。前記講和会議もそうであるが、マッカーサー元帥が解任されリッジウエイ中将が最高司令官として登場するなどのほか、国内的(電波行政の面)においては、テレビジョン放送局免許をめぐって電波監理委員会は、他を顧みるいとまもないほどであった。
それでも電波当局は、JARL等の要請を容れ、ようやくこの年の6月第1回アマチュア無線技士(第一~二級)の国家試験を実施した。ここにはじめて再開の道が開かれたのだった。
ちなみに、このときの試験結果は次の通りであった。
すなわち
▽第一級試験=申請者119名、合格者47名(全国計)
▽第二級=申請者197名、合格者59名。
当時としては必ずしも良好な成績とはいえなかったが、一、二級を合わせて106名が国家から正式に資格を与えられたことは、関係者にとってこの上ない喜びであったに違いない。
かくして迎えた27年6月19日、電波監理委員会はアマチュア局免許方針を決定し、7月29日全国30局に予備免許を与えている。思えば10年以上にわたる関係者の血のにじむような努力がここに結晶したわけであるが、このことも我が国電波民主化の上に花咲いた歴史の一頁だと思う。
当時の私はアマチュア無線は、一個人が国の貴重な電波をほしいままに利用するものであり、場合によっては「国の機密」が海外に流れるおそれもあり、混信問題はもちろん無線家としてのモラルが問われるものと考え、どちらかといえば身を乗り出してまで応援してよいものかどうかと迷っていた一時期がある。
しかし、やがて私の杞憂は払拭されていった。1969年のITU(国際電気通信連合)総会をはじめ多くの国際会議等に列席し、また世界のアマチュア無線関係者と交歓するに及んで諸外国のハムの実態を知ると同時に、これらの人達が公共のためにどのような活動をしているのか、また組織運営に少しの乱れもないことを知り、私自身アマチュア無線に対する蒙を多く啓いたのである。
日本のアマチュア無線は昭和34年(1959)6月JARLが公の団体すなわち社団法人として郵政省から認可を与えられたときから名実ともに各方面から認知される一方、今や世界に誇るアマチュア大国として国際的に高い評価を得ている。これを具現する原動力というか推進力は多くの人の名をあげないといけないが、なんといっても40余年にわたって連盟の強化育成に努めてきた会長原昌三氏(当時)の献身によるところ大であり万人の認めるところであろう。原氏が国際親善の一環としてアジア、大洋州地域のアマチュア無線の振興に尽くされた多くの貢献をこの目で見てきた。
さらに原氏は世界のアマチュア無線界のために数多くの国際会議に出席して、新しい電波(周波数)の獲得と、その地域分配あるいは技術の振興等につくされた姿をこの目でみている。加えて国内のアマチュア無線の資質の向上のため関係団体の結成と運営のために注がれた業績もこの際紹介しておきたい。
あらためていうまでもなくアマチュア無線の裾野は限りなく広い。老若男女の別なく、職業的にも千差万別である。社長や国会議員もいれば小学生以下の年少者も有資格者だ。
国会議員連盟もあれば全国の放送局、会社団体の中にハムクラブも結成され、有事の際はもちろん人々の心を結ぶ強いきずなとなっていることはいうまでもない。
阪神大震災や、かつての新潟大地震をはじめ昭和28年6月に起きた北九州、熊本地方大水害の際の活躍などは今なお心に刻まれる。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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