実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第130回

「日本テレビ開局余話②」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け(昭和28年)

 昭和28年(1953年)8月28日に行われた日本テレビ放送網の開局式では、各界代表の祝辞ののち、相談役の藤原銀次郎氏の発唱で乾杯、11時50分から開局記念番組「寿式三番隻」が天津乙女、南悠子らによって演じられ、次いでナンシー梅木らの「歌の祭典」で昼の部をしめくくった。
 夜は帝国劇場から初の中継放送が行われたが、お堅いNHKと違って(民放らしい演出方法による)歌と踊り、バラエティショーが午後9時まで続き、民放テレビ放送発足にふさわしい一日であった。いずれにしても、この日から日本のテレビはNHKと民放両建てとなったのである。

 NTV(日本テレビ)開局の一端として、先ず8月28日に行われた開局式典の模様を一部紹介したところであるが、ここに漕ぎつけるまでの二年間、正力松太郎社長以下役職員の苦労は大変なものであった。
 同社(読売新聞)が、世間をアッといわせるようにテレビ事業に名乗りをあげたのは、昭和26年(1951年)の8月のことである。これに至る経緯については、すでに前述したところであるが、皆川芳造、鮎川義介氏らの推奨によって、テレビ事業に着目した正力氏は、公職追放解除(注・8月6日)以降、表面的に運動を開始した。
 NTV発行「大衆とともに25年(沿革史)」によれば、昭和26年8月13日、正力氏の依頼を受けた参議院議員岡崎真一氏(同和火災海上保険社長)は、ワシントンで米上院議員カール・ムント氏と会談、日本におけるテレビ事業についての援助と協力を要請した結果「正力氏の計画は、日本国家のために喜ばしい。アメリカもできるだけ援助する」という確約をとりつけた、とある。

 とくにカール・ムント氏は、日本でのテレビ開始の促進者であって、彼は第二次世界大戦後まもなく、当時アメリカ国務省の対外放送VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)のテレビ版を極東地域でも実施すべきであると強硬に主張した人物であった。彼はアメリカ議会でその必要性を次の如く強調(演説)している。
 「共産主義は飢餓と恐怖と無知の三大武器を持っている。その共産主義の脅威に最も直接にさらされているアジアと西欧諸国においては、テレビジョンの果たす広い領域がある。すなわち共産主義者に対する戦いにおいてアメリカが持っているテレビが最大の武器であり、我々は「VOA」(ラジオ)と並んで、アメリカのテレビを海外に建設する必要がある。そのもっともふさわしい国は日本とドイツである。とくに日本にテレビを完全に行き渡らせるための建設費は、わずか460万ドル(当時の邦貨16億5600万円)であって、これはB29爆撃機二機の製造費とほぼ同額である」
 続けて彼は「日本にテレビを普及させるためには山頂中継方式で、それも22カ所に建設すればよいので、詳細な研究を進めるための調査団を日本に派遣する必要がある」と提唱した。
 当時アメリカではこの提案に反対する者はほとんどいなかったし、むしろアメリカ内の世論は「このような重大な計画は、アメリカが直接やるのでなく、適当な日本人を選び、アメリカはこれに必要な経済的技術的援助を与えるべきである」と固まった。
 理由は「日本人の対米感情を考慮し、直接アメリカが手を下さず、適当な日本人に命じて施設することがベターだ」とするマッカーサー元帥の意見も採用されたのである。

 さて、カール・ムント米上院議員が、「アジア及び西欧諸国を、共産主義の恐怖から守るため、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)のテレビ版新設」の必要性を提議したことにより、アメリカ国務省が本格的な検討に乗り出し、当時日本を占領中のマッカーサー元帥の意見も聞いたところ、同元帥は「日本人の対米感情を考慮し、こうした事業は、むしろ直接アメリカが行うことを避け、適当な日本人をして、これを代行せしむることが、占領行政としてもっとも適切である」との意見を具申した。そこで米政府としても、対日政策上これが適切であると判断し、直ちに行動に移った。
(第130回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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