実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第131回

「日本テレビ開局余話③」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け

 アメリカ政府がVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)のテレビ版として、日本及び極東地区にテレビジョンを持ち込もうと考えたのは、当時の共産勢力(旧ソ連、旧中共)から日本ならびに韓国等の民主主義国の防衛を第一義とするものであった。しかも、これが建設に当たっては、B29爆撃機二機分の製作費で済むということは、アメリカ政府としても大きな魅力であったことはたしかである。

 そこでアメリカ政府は、あらゆる情報手段を駆使して「日本人で、しかもこれだけの事業を実行できる企業家」選びに乗り出した。しかし、そのころのアメリカでは、こうした事業を推進できる日本人についての知識に乏しかったため、その一案として、そのころアメリカにおけるテレビの父といわれたド・フォーレ博士に人選を依頼しなければならなかった。
ド・フォーレ博士は旧知の友人である皆川芳造氏にまず事情を打ち明け、事業への参画を打診(依頼)した。皆川氏は「自分は一介の電子技術者に過ぎない。むしろ、このような大事業を推進できる人物としては、鮎川義介氏が最適任者と思う」と鮎川氏を推薦した。鮎川氏は昭和の初期から20年にいたるまでの間、日本を代表する大事業家として知られた人物である。だが、鮎川氏も「テレビ事業は未知の世界であり、しかもそれが言論を伴う仕事とあっては適任者にあらず」と判断すると同時に、「こうした事業の開拓に当たれる者は正力松太郎をおいて他にあるまい」として、正力氏を推挙したのが端緒だった。

 皆川氏からの報告を受けたアメリカ政府は、直ちに正力という人物と企業的手腕等を調査した。その結果、彼が内務官僚から新聞事業に転身してからの足跡、とくに前人未踏のリスクを犯してまで職業野球を興したりした数々の過去の実績を買い、急速に正力に接近するとともに、正力の真意を打診した。野心家といわれ、また一日も速やかに公職追放から解放され自由な身となりたいと熱望していた正力氏に異論があるはずもなく、むしろ畢生の事業として、この話に目を輝かしたのは当然である。
 前にも述べたところであるが、日本に初めて民間放送ラジオの免許が予定される前の昭和24、5年ごろ、彼(正力氏)は、一応同業他社に準じて「読売放送」の看板を掲げたものの、真意はテレビにあった。だから私(筆者)が東京地区の申請一本化に奔走したころ、正力氏を訪ねると、彼はラジオに対して強い熱意を示さなかったのであった。それは、もうそのころアメリカ側からもサインが出ていたようであったし、彼自身ひそかに「次の時代はテレビである」との野望を持っていたようである。

そこで正力氏は、当時読売新聞の外信部記者だった柴田秀利氏に命じて、アメリカにおけるテレビ事業について、あらゆる角度からの調査を行い、かつ情報を取った。しかも正力氏にとって幸運だったことは柴田記者がNHKの解説者(とくにアメリカ関係の時事問題)として委嘱されたことである(注・そのころNHKの海外問題を担当した者としては、前田義徳、岡村二一、長谷川才次の各氏らそうそうたる人が名を連ねていた)。
 柴田記者は、正力氏の命を受けて、しばしばアメリカ本土に赴いたほかGHQ関係に出入りして、情報を入手し正力氏に連絡をとっていた。強いていえば、そのころのNHKは、まことに悠長なもので「解説のための情報蒐集」といえば、アメリカへの出張旅費まで彼に支給していたという。
 ド・フォーレやカール・ムント氏が日本にテレビ網建設を主唱したときのニュースを伝えたのも柴田記者であったし、昭和26年2月、電波監理委員の「米国における電波研修」のとき、GHQから「それに同行」を命じられたのも柴田記者であった。

 

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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