実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第132回

「日本テレビ開局余話④」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け

 当時のNHKのテレビへの対応はどうだったかというと、たしかに事業開始への研究や準備は進められていたものの、①標準方式の未定②受信機普及の見通しと国内産業の状況などから、正式な事業展開は2、3年後、つまり昭和30年ごろを予定していたようだった。
そこでテレビ導入に熱意を示していた正力氏は、同郷(富山県)の出身で、当時NHKの副会長をしていた小松繁氏に会い、まずNHKの意向を内偵したところ「NHKは2、3年後」という言質を得て歓喜雀躍した。

(注・小松さんが、正力氏に語った「2、3年後」というのは、当時NHKは独自の方式=つまり7メガヘルツによる実験を行っていて、その結果等をみるまでに2、3年かかるという意味であった。もちろん、そのとき小松さんは、そこまでは打明けてはいなかった)。

そして間もなく「日本テレビ放送網株式会社設立について」というパンフレットが各方面にバラ播かれた。
それによると、終戦後最初にテレビ事業の創設を考えたのは正力松太郎であると記されている。そして、それに理解を示した鮎川義介氏(前述)が、友人の皆川芳造氏に頼んで「著名なアメリカの電子科学者(三極真空管およびトーキーの発明者)ド・フォーレ博士に相談してみよう」ということになった。そうした折り偶然にも当のド・フォーレ博士から「近ごろアメリカのテレビは非常な勢いで発展している。日本でも始めてみたらどうか。君と一緒に(日本で)出願してみないか」という誘いの手紙がきたとしている。そこで皆川氏は、この手紙を持ってGHQと折衝したが、相手にされなかったという。しかし皆川氏はこれを諦めず、かつて日産コンツェルンを築き上げた鮎川氏と相談したところ、「このような大事業を興こせるものは正力松太郎氏以外に適任者はいない」と正力氏の出馬をうながしたとなっている。

(この辺りの経緯は筆者が関係筋から得た話とはだいぶニュアンスが違う。しかし今日では当時のことを身をもって知る人がいずれも他界されており、証言者も見当たらないので、私の知り得たことを中心に筆を進めざるを得ないことをお断りしたい)。

正力氏自らが私に語ったところによると、日本で健全な民主主義と自由な言論、商工業を発展させる早道はテレビ以外にない。それも民間企業でやりたいと考え、友人の鮎川氏に相談したところ、鮎川氏は全面的賛意を表し「それならド・フォーレ博士を通じてアメリカ国務省に頼んでみよう。ド・フォーレと皆川氏はトーキーを通じての友人だから」ということになったと云っていた。

いずれにしても(パンフレットによれば)皆川氏はド・フォーレ博士の書簡に返信し「日本でテレビのような大事業をやるのには私は適任者ではない。これは正力氏をおいて他にない」と紹介文を書き、協力を要請したとある。
間もなくド・フォーレ博士からも返信があり、それには「国務省のいうには、日本のことは連合国軍総司令官マッカーサー元帥にすべて任せてあるから、同元帥と直接交渉しなさい」といわれたとあった。昭和24年9月頃のことである。
そこでド・フォーレ博士は、マッカーサー元帥に直接書簡を送り、また皆川氏も同様の行動を起こした。これを受けて、マッカーサー元帥は、当時の吉田首相と書簡を交換した結果「現時点の日本の実情を考えると、テレビは贅沢品であり、そのために、日本にあるドルを使用してはならない」と吉田首相に意向を伝えた。

敗戦国が何を言うか、というに等しいものだった。たしかに昭和24年11月ごろの世相はそのとおりであって、まして公職追放者である正力氏の計画など黙殺するとの態度であった。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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