実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第133回

「日本テレビ開局余話⑤」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け

話を先に進めるが、テレビ第一号の免許に浴した日本テレビ(NTV)ではあるが、局舎や施設の建設が容易ではなかった。まず演奏所(スタジオ)並びに送信所をどこにするかが先議されたものの決定には時日を要した。
 たとえば演奏所については、第一案として出演者その他の利便をはかるため、都心の有楽町駅前にある読売別館五階ホールと事務室約三百坪を改造して、同ビル屋上に送信鉄塔を建てる案、二案として演奏所は有楽町、麹町(千代田区)二番町に送信所設置案、さらには最良の立地条件として市ケ谷の旧陸軍参謀本部跡地(現自衛隊駐屯地)などが候補にのぼった。

 しかし、第一案の読売別館ビルは戦災で焼けたビルを改修使用したもので、放送機器や鉄塔などの重量に耐えられないことがわかり廃案。また市ケ谷も国有地のため一民間事業への譲渡が困難という理由で断念された。結局は多少狭阻のきらいあるものの、二番町に送信鉄塔をふくむスタジオ、局舎などを置くことが決定した。
 送信所決定と同時に正力氏は、そこをNTVのみで使用することは、いかにも不経済であることから、やがて開局されるNHKに呼びかけて、鉄塔アンテナの共同使用を考えた。たしかに送信点を同じくすることの意義は大きく、大衆への利便はいうまでもなかった。

 しかしNHKは商業テレビとの同居は好ましくないとの建前から、これを拒んだ。ラジオ東京も感情のもつれ等から鉄塔の自営を主張し、ついにこの計画は実らなかったのであるが、このことは、東京タワーが建設(昭和34年)されるときまで尾を引いた。最初にアンテナの共同使用を提唱した正力氏は、東京タワーへの移設を拒否するなど、幾多の話題を提供した。

 ところで、NTVの放送設備・機器であるが、放送機類は初めからアメリカ(RCA社)製と決まっていた。そして電源設備は東芝、鉄塔工事は清水建設と浦賀ドックと決め、晴れの開局を28年4月1日と予定して諸準備を進めていった。しかし、当時としては最新式といわれたRCAの「空冷式送信機(含真空管)」の製作が大幅に遅れてしまった。カメラ、調整装置、局外中継装置、音声機器などは同年二月横浜に到着したが、肝心の送信機やアンテナ、イメージオルシコンなどの心臓部分が、横浜に着いたのは6月から7月になってからであった。しかもアンテナ用サイドバンドフィルター(2・5トン)がニューヨークから空輸されてきたのが7月21日のことであった。このため8月28日を正式開局の日として文字どおり徹宵作業が繰り返えされ、晴れて試験電波が発射されたのは8月20日、試験放送は8月24日というまさに薄氷を踏むような毎日であった。

 ちなみに、NTVの工事落成を含む電監検査の合格は、開局日の前日(8月27日)午後0時45分過ぎであった。

 前述したように日本テレビの開局は、免許第一号、民放テレビのトップを切るものであったが、それまでの間には語り尽くせぬ悲喜劇が繰り返えされたようだ。技術的にも(建設工事を含めて)未経験の部門が多かったこと、特に外国製品に依存したことなどもあって、正式に電波が発射され、郵政省の工事落成検査の合格が開局日の前日という剃刀(カミソリ)の刃を渡るような毎日であった。
 また、開局はしたものの、最も重要な問題は、受信者をいかにして獲得するかであった。たとえばNHKが開局した28年2月1日当時の受信機普及台数は全国で866台、うち東京都内664台にしか過ぎず、しかもこれらのうち482台がアマチュア無線家たちによる手造りのものであった。NTVが開局したころには受信機の普及も約3500台と増えてはいたものの、そのような数では商業放送の経営としては話にならない。スポンサー(広告主)がつくわけがなかった。

 そうしたときに正力氏一流の強気発言が出された。「テレビでの宣伝価値は、受信機の普及台数だけで決まるものではない。要は、それを視る人の数である。盛り場や大勢の人の集まる場所に受像機を置けば、大勢の大衆が見る。見れば広告効果が上がるし、スポンサーへの説得力になる」として、考えついたのが、かの有名な「街頭テレビ」であった。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

是非、感想をお寄せください

本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。