実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第134回

「日本テレビ開局余話⑥」

第3部 テレビ放送波乱の幕開け

 正力氏が考えついた、かの有名な「街頭テレビ」構想は世間をアッといわせるような賭けであったが、結果としては大きな成功を収めたことは大方の知る通りである。
 街頭テレビを実施するにあたって国産では用を足さないと知るや、正力氏はRCAやモトローラ社から21インチ型、ゼニス社の27インチ型など、当時としては超大型受像機220台を輸入し、これを都内の新宿、銀座、新橋駅前などに設置して宣伝啓蒙につとめた。
 その結果、下馬評を見事打ち破り、街頭テレビの周囲は、連日連夜黒山の人だかりとなった。また正力氏は読売新聞という強力な宣伝媒体を持っていたから、その援護射撃が実に大きな効果をもたらしたことは言うまでもない。
 加えて先発のNHKにはみられない、興味本体というか、庶民の噌好にマッチするような番組、たとえばプロ野球、娯楽映画、プロレス中継などが国民の耳目をとらえ、普及率はみるみるうちに高まっていった。
 NTVが街頭テレビに投じた先行投資的な資金が何億円になったのかは、今もって明らかではない。また一部はアメリカ側の無償援助であったとの噂も流れたが、わが国テレビ発達史のなかにおける型破りのこうした行為は、正に特筆さるべき快挙といってよいだろう。

 わが国のテレビ発達史を彩るものとして、日本テレビ放送網会社(NTV)の発足にまつわる幾つかのエピソードを紹介してきたが、私自身も、在りし日の正力氏と渡り合った数々の思い出が走馬灯のように去来する。
 前述したように最初の出会いは東京・大手町の野村ビルにあった「関東レース倶楽部」の一室であった(そのころの正力氏は、まだ公職追放中の身で、読売新聞社に復帰していなかった)。しかしテレビ事業に懸ける情熱というか気概は、尋常一様のものではなかった。
 「いまの社会事情を見るがよい。国民は衣食住にも事欠き、生産も進まない。民衆は娯楽に飢え、生活の喜びも知らない。こうしたときにテレヴイーを始めることの意義は何ものにも代え難い。しかし、NHKは自分のことばかり考えて2、3年先でないとやらないという。だからワシがやると言っているんだ」と強気満々であった。

 昭和26年12月に会ったときは「ワシの計画はマウンテントップ方式といって、たとえば富士山頂から関東甲信越に電波を流す。建物や機材の運搬にはヘリコプターを使うんじゃよ」どうじゃといわんばかりに胸を張った。そして「ワシの計画はアメリカが全面的に協力すると約束してくれているんだよ。それも世界最新式の機械でやるからね」と。そこで私は「まだ送信の標準も決まっていないのに」とやり返すと「そんなことは問題ではない。いま世界中でテレヴィーを実施しているのはアメリカだけだ。ワシはその技術をそっくり取り入れてやる」と、これまた自信満々であった。
 やがて日本中を湧かすようなメガ論争において「6メガの勝者」となったとき「キミはNHKと一緒になってやれというが、そんなことができるわけがない。商業テレヴィーこそ普及を早めることができる。しかもワシは強い宣伝力(新聞とプロ野球)を持っておるし、まず街頭テレビを見せるんじゃ。君のような優秀な記者は読売にはおらん。よかったらワシと一緒にやらんかね」まさに人を食ったオヤジであった。
 そして東京タワーが出来たとき、郵政省の勧奨にも耳をかさず「だから初めからワシは送信所は一緒にやるべきだと主唱した。それなのに、理屈をコネて反対したヤツがいる。ワシの目の黒い内は絶対に一緒にならん」と言い切った。
 その正力氏は昭和44年10月9日午前3時50分、療養中の国立熱海病院で肝不全のため84歳を一期に永眠した。迎える9月10日はカラーテレビ開始35周年であるが、これも正力氏の功績の一つといえる。奇代の風雲児というか波乱万丈に富んだ一生だったが、日本の電波史の中で氏の足跡は万感に値するものがある。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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