実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第135回

「プロレス・ご成婚・オリンピック①」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 ここからは、テレビ発達の歴史をもう一度振り返ると同時に、数々のエピソードを紹介してみたい。まず本題に入る前に、テレビ普及の足どりを辿ることとする。

 NHKが本放送を始めた昭和28年2月1日現在のテレビ視聴世帯数は、なんと886件に過ぎなかった。もっとも、この数字はNHKと受信契約を結んだ世帯数である。なお、日本テレビが東京都内及びその周辺に設置した「街頭テレビ」は55台だった。それが1ヵ月を経た2月末日には1485件となり、翌29年3月末現在では1万6779件に達している。
 テレビ視聴件数が100万台を突破したのは昭和33年5月に入ってからで、そこに達するまでに、実に63ヵ月(5年余)を要している。その主の理由は、受像機の価格が一般庶民の手の届かぬところにあったからといえよう。当時のテレビ受像機といえば、ブラウン管サイズも7インチから12インチ程度のものがほとんどで、値段も主力の7インチもので約8万円、12インチ以上となると平均16万円と高額であった。これでは一般の俸給生活者(サラリーマン)の手に届くわけがない。
 その当時、一般サラリーマンの月給はせいぜい1万円程度と記憶している。したがって大衆には高嶺の花、しかも今のようにローンとかクレジット(割賦制度)は皆無に等しかったから、民衆は街頭テレビを見るか喫茶店やレストランで、わずかの時間を楽しむ以外なかったのであった。

 こうした時代がしばらく続いたが、なんといってもわが国テレビ発達史の中で特筆されるのは、昭和34年4月10日、時の皇太子殿下と美智子妃殿下のご成婚であった。この日の模様はNHKテレビによって全国津々浦々(除く沖縄)に実況中継されたのはご承知のとおりであるが、この「ご成婚」を前にテレビは爆発的に普及した。
 この年の4月、NHKの統計によれば受信加入契約者は、はじめて200万を突破している。つまり33年5月に100万を突破して以来、わずか11ヵ月間に100万増加したことになる。また、この年の10月には400万と6カ月間に100万の増加という普及ぶりだった。
 それ以後のテレビの普及は、まるで倍々ゲームのような加速度で、35年2月には400万台(4カ月間)。待望1000万台となったのは昭和37年3月のことで、それまでの普及テンポを計算してみると、500万台突破は35年8月(400万台から6ヵ月)、その後は3ヵ月から5ヵ月ごとに100万台ずつ増加したことになる。
 この間に特記すべきこととしては39年の東京オリンピックがあった。なお、NHKとの受信契約者が3000万を超えたのは昭和55年3月であって、もうそのころは既に全国の世帯でテレビを視聴していない家庭を探すことのほうが困難なほどになった。

 こうしたテレビ発達の原因はテレビジョンというメディアが、日本人の家庭にとって、かけがえがのない文化財であり、情報源であったからといえよう。テレビスタート時点の日本の国情をみると、衣食住も充分でなく、しかも娯楽とか家族全体が茶の間で団梁(だんらん)し合うものとしたらラジオだけであった。それが数年後には家庭の雰囲気を一挙に変えることになった。
 数々のタレントによる歌と踊り、加えて新しく芽生えたプロレス中継やスポーツ放送は、正に家庭を一つの劇場にまでした。加えてNHKと民放テレビによる視聴者獲得戦は、いやが上にも大衆を虜にしたのだった。
 もう一つ、このようにテレビを発展させたのは、受像機メーカーと販売店(電機商)ではなかっただろうか。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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