実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第136回

「プロレス・ご成婚・オリンピック②」

第4部 テレビ普及に向けた動き
 ここで、テレビの発展を支えてきた受像機メーカーと販売店(電機商)について振り返ってみたい。
テレビ放送がスタートした時代の受像機メーカー及び製品等を回顧し、以下の社名等をみると、年を経るに従って弱肉強食時代の推移を推し測ることができるのであるが、当時は次のようなメーカーが、妍(けん)を競っていたのも今にして思えばなつかしい(以下五十音順。社名の下は主な製品と受像機の値段)。

 ▽地上通信機(七型)八万円、▽一番人気(同)八万二千円、▽日本コロムビア(十二型)十六万円、▽日本アルファ電気(同)十八万円、▽日米テレビジョン(二十型)十八万円、▽東京芝浦電気(七型)十一万円、▽チトセテレビジョン(十七型)十六万円、▽大洋無線工業(卓上十七型)十六万円、▽七欧通信機(十二型)十四万五千円、▽八欧無線(七型)八万四千円、▽松下電器(七型)八万九千五百円、▽三岡電機(十四型)十四万五千円、▽共立電波精器(二十型)二十万円、▽三菱電機(十七型)価格未定、▽早川電機(十四型)十四万五千円。

 以上は昭和二十八年十一月末における国産テレビ受像機の一覧である。電波タイムズはこのような資料を公表すると同時に普及促進につとめた思い出がある。もちろん上掲の機種はその代表的な一部であって、すでにそのころアメリカRCA社と提携して十四~十七吋の大型(コンソール型)の製作販売を行う会社も漸増した。
テレビ本放送の始まったころは、大手メーカーだけでなく全国各地の電機店や、腕におぼえのある人々が手造りセットというか、半完成品キットを造って販売するというブームを巻き起こした。外箱や附属品を購入して組み立てれば四、五万円で立派に視聴者になれたからである。
 これに拍車をかけたのは全ラ連(全国ラジオ電機組合連合会)だった。そのころ全ラ連の先頭に立っていたのは花岡岩雄、小川忠作、信井斉蔵氏らであったが、これらの人達は自社の手造りテレビに加え、アマチュア無線家や街のラジオ技術者に呼びかけて手造りを奨励した。このため「テレビアマチュアコンクール」などを開催するほか、ラジオテレビ祭を主催して普及につとめたことは有名である。大衆の需要に応える最も近道の方法だったからであった。
 たとえば、名古屋市で共聴施設メーカーとして著名な愛知電子の山口正起社長などもその一人で、山口氏に会うと「NHK(名古屋)のテレビ電波を岐阜県可児市近くの山中で受信に成功したので『共聴施設』を作ったり、受像機も手造りしたのを知人に分けてやったりしたことがあります。これが後に直列ユニットを作る端緒になりました」と、往時をなつかしんだ。
とにかくテレビの始まったころの放送時間といえば、一日せいぜい四時間程度で、番組の内容も、とくにNHKはお堅い標本のようであったため、番組の充実を求める声が高かった。
 そうしたところへ突如として登場したのがNTV(日本テレビ)のプロレス中継であった。それまで日本人のほとんどがプロレスというものを実際見ていなかったから、視聴後の反響はすさまじいものだった。人々は興奮し、大喚声をあげていた風景がいまだに忘れられない。したがって強いていえば、テレビを普及させる原動力となったのはプロレスだったといえよう。
     (第136回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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