実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第137回

「プロレス・ご成婚・オリンピック③」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 さて、プロレス中継を最初に実施したのは日本テレビで、放送は昭和29年2月19日から3日間にわたって行われた。
 日本テレビとしては、はじめはテストケースのつもりで実施してみたところ、あまりの反響の大きさに、むしろビックリしていた。それも今なお語り草となっている力道山・木村政彦対シャープ兄弟による日米肉弾戦である。当時の日本は大東亜戦争で一敗地にまみれ、しかも占領下にあった日本人は、なにひとつ(米軍に)頭の上がらなかったウップンを晴らす機会でもあった。特にアメリカ人にパンチを見舞うことは、力道山のみならず溜飲の下がる思いでいっぱいだったからだ。したがって街頭テレビを前にした大群衆が歓呼の声をあげ、足を踏み鳴らしたあの光景は、とうてい今日の人には想像もできぬ場面であった。
 3日間にわたったプロレス中継は、人から人へ口伝えとなり、日本テレビの推計によれば(街頭テレビを含めて)視聴率は87%にまで達したという。
 いずれにしても、これらのこともあって、テレビジョンは普及のテンポを早めたが、私としては、もっと大多数の大衆を直接的目標にした普及運動を起こそうと考え、思いついたのが各メーカーの受像機を綜合展示し販売促進に一役買って出ようということであった。

 昭和28、9年のころ、東芝は「東芝商事」なる家電専門の販売会社を創立。これと時を合わせて日立製作所も「日立家電販売」を、また日本電気は滋賀県大津にブラウン管と家電製品を製造販売する新会社「新日本電気」を興した。これらはすべて時代にマッチした経営方針によるものだった。一方、日本ビクターや日本コロムビアもレコード専門会社からテレビや家電製品の販売会社に変身したのもこのころである。

 そこで私(電波タイムズ)が考えたのは「テレビ巡回公開の夕べ」を主催することだった。上記各社の製品を一堂に集め、機器の説明やら各種デモンストレーションを展開して、販売に結びつけようという計画である。
 この計画には、NHK、NTVはもちろん電子機械工業会も大歓迎で後援者になってくれたほか、当然の如くメーカー各社は受像機ばかりか要員まで供出してくれたのは有難かった。会場は都内の小中学校や公民館、各区の公会堂を対象にし、各校のPTA、区教育委員会等の協力も得られたので会場はいつも満員だった。この催しにあたって今でも頭が下がる思いがするのは、NHKやNTV、TBSなどが、開催日時に合わせて特別番組を編成し、協力してくれたことである。この催し、というか運動は昭和29年から31年まで続けられた。自画自讃ながら、この催しによってテレビの普及に少なからず協力できたものと自負している。

 その当時の笑えない話として思い出に残るものに、こんなことがあった。1956年にメルボルン・オリンピック大会が開かれた。NHKはラジオとテレビでその実況放送(テレビはフィルムによる編集)を行ったが、当社の巡回公開に集まった老若男女は、初めのうちは、それに群がったもののプロレスが始まると、一斉にそれを写す受像機の前に移動する等して会場が大混乱したことがあった。このためNHK番組を映すテレビの前はガラ空きとなるなど、大衆がテレビに何を求めているかがよく判っておもしろかった。
 あの頃はNHKの「チロリン村」とか「二十の扉」などが人気を集め、民放ではプロ野球や「ローハイド」など外国製の映画が家庭の娯楽としてもてはやされたものである。やがて、テレビの普及は大都市から難視聴地域解消施設構築へと進んでいくのであるが、いわゆるテレビ共聴時代が展開されたのは昭和30年(1955年)以降のことである。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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