実録・戦後放送史 第138回
「テレビ共聴施設の生い立ち①」
第4部 テレビ普及に向けた動き
話題を転換して、地域社会におけるテレビ普及に一役買った「テレビ共聴施設」の生い立ちをたどってみたい。いわゆるテレビ送信所から遠く離れた「へき地」や山間の集落などは、一日も早く都会並みにテレビ電波の恩恵に浴そうという熱意は、多くの娯楽や情報にめぐまれた都会人よりも強かったのは当然であった。
また温泉町やリゾート地に住む人々は「町おこし」はもちろん、行楽客誘致のため「まずテレビを」という要求が自然発生的に全国に拡がり、昭和29年群馬県伊香保温泉をトップに有線テレビ施設の構築が燎原の火の如く波及していった。
これは、電波の見通しのよい山項などで、遠隔地のテレビ電波を伝播してくる地域に受信増幅し、そこから同軸ケーブルやフィーダー線によって、各家庭や旅館等を結ぶシステムであるが、これらの動向を年次別に記してゆくと、その嚆矢となったのは前記伊香保の共同受信施設の誕生(昭和30年)であった。
ただ、テレビジョン学会編「テレビジョン技術史」によると、伊豆長岡温泉で電器商の松本智氏がフィーダー方式による幹線延長500メートルの共聴施設を作ったのが始まり(昭和29年8月)で、次いでこの年の11月、松下電器が有馬温泉で映像伝送を行い、30年2月には日本コロムビアが南紀白浜温泉に同軸200メートルの施設を作った。これを追いかけるように同年6月松下電器が同じく白浜に映像伝送方式(恒長2キロに及ぶ)の施設を作ったとあり、それによると伊香保の施設は全国で5番目ということになる。しかし、伊香保の場合はNHKが全面的に技術指導をしたという特色がある。
30年頃になると各メーカー等が熱心に技術開発と実用化を進め、なかでも東芝はNHKの技術的バックアップを得て「Gライン方式」の実用化が成り、初めてこの施設を神奈川県湯河原温泉から一部を熱海まで結ぶ1・5キロに敷設した。
こうした温泉地ばかりでなく、当時としては一般家庭を対象にした本格的な施設も出来た。これは昭和31年3月、日本コロムビアが岐阜県高山市に作った幹線延長4キロにおよぶ大規模なもので、この施設は翌年CBC(中部日本放送)の受送信も含めるという画期的なものであった。このため同施設には初めて第1~第5チャンネル用コンバータが使用された。
次いで東芝は湯河原での成功により会津東山温泉に同軸ケーブルによる延長700メートルの施設を作ったが、このころ平形二心ケーブルが電気大学と宮崎電線によって、また同軸分配器が八木アンテナで開発されるなど、テレビ共聴発達史の中のエピソードがある。
さて、わが国におけるテレビ共同受信の生い立ちから歩みを年次を追って紹介したが、なんといっても、そのはしりは、「群馬県伊香保町」で、先駆者と呼ばざるを得ない。
というもの、この町の共聴施設は、先にも述べたが、当時のNHKが本格的に協力し取り組んだものであり、しかもその運営に当たっては、同町の観光協会が「伊香保町テレビ共同受信協同組合」を結成して積極的な普及活動を行ったからである。
私も、この施設を作りつつあった昭和30年春、直接現地を視察(取材)し、町の人々から喜びの声を聞いたことがある。その現地、すなわち受信所は伊香保温泉街から直線にして約400メートルの距離にある物聞山(ものききやま)の海抜810メートルの地点、雑木林に囲まれた項上付近にアンテナが建てられ、そこから同軸ケーブルで下ろされて各戸に分配されるというものであったが、あの頃を思い出すと、受信所までの道のりが大変であった。街を見下す高台にある伊香保神社までの通路は、渓沿いの岩石を削った一本道、鎖のロープにすがり乍ら、まず神社に参詣したあと、けもの道のようなつづれ折れの山道を登っていくのだが、落葉や枯れ葉で普通の履物では滑ってしまって用をなさない。
「さもありなん」と事前に用意していったゴルフシューズが効用を発揮、誰よりも先に項上に達した。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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