実録・戦後放送史 第139回
「テレビ共聴施設の生い立ち②」
第4部 テレビ普及に向けた動き
日本の本格的テレビ共聴の歴史をたどるため、私は、群馬県伊香保町に、この計画の発案者、千明三右衛門(ちぎら・さんえもん)氏をたずね、往時のいきさつなどについて直接聞いてみることにした。
日本のテレビ共同受信のルーツを訪ねるといっても、今日では、その当時を体験した人が稀有の存在となってしまった。
わが国テレビ発展の陰に、どのような人が尽力されたかの記録をたどるべく、僅かな記憶を蘇らせてみたら、いま当時のことを知る人としたらNHK関係では元受信機部に在籍していた市原嘉男、北条幹雄さんぐらいしかいない。
しかも伊香保町で、この事業を創生され往時を知る人といったら千明氏たった一人であるということが判った。
そこで伊香保町観光協会に、その所在を調べてもらったら「その人なら、いまは隠栖(いんせい)しておられるが千明仁泉亭という旅館の会長さんです」という返事が返ってきた。早速、千明氏とも連絡が取れ、次のようなナマの話を聞くことができたのは我ながら幸運だった。以下はその回顧である。
「昔、この町の観光協会の会長などしておったものですから、よく東京へ出掛けました。いつの日かハッキリした記憶も記録もないんですが、東京にテレビができて1年ぐらい後のことですから、昭和29年ごろだったと思います」
ことし85歳(当時)になった千明さんは、しきりに往時をなつかしむような話ぶりだった。
「あのころ上越線が新橋から出ていたことがありましてネ。なにせ渋川駅まで2時間以上もかかりますから、つれづれに駅の売店で「LIFE」(米誌ライフ)を買い、暗い車中で読んでおったら、そのなかにアメリカのケーブルテレビの記事が載っていたんです。今はその本が紛失してしまったものですから、詳しい年月も、アメリカの何という町かも忘れてしまいましたが、もうそのころアメリカではケーブルテレビというのをやっておったんですね」
そこで千明さんはヒントを得て、ハタと膝を叩いた。東京から200キロ近くも離れた、しかも伊香保町は山間の、テレビ電波の不感地帯である。だが「アメリカで実施しているものだったら、日本でもできないことはあるまい」、そう思うと矢も盾もたまらず、NHK前橋放送局に相談に行った。
「その時の局長は岡部桂一さんでしたが、私は岡部さんにそのライフを見せてこれと同じようなことが日本でも出来ないものでしょうか。もしできるとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうと聞いてみたんです。そしたら岡部さんは、これはNHKとしても大事な仕事ですから至急検討してみましょうということになり、NHKの本部と連絡されたうえ、しばらくして実態調査ということで市原、北条さんという二人の若い技師を派遣して下さいましてね」と一区切りしたあと、「その頃NHKはGライン方式がよいか同軸ケーブルがよいか研究中のようでしたね」とも付言された。海軍通信隊にいたという千明さんの話には具体性があった。
「それから市原さんと北条さんは受信点をどこにするかで、それを探すためにあちこち大変でしたよ」と想い出話は続く。結局は町から約400メートル離れた物聞山が理想的な受信点であることが確認され、ここにアンテナポールを建て、同軸で町まで映像ケーブルを引き下ろすことになったのであるが、これを伝搬するとき、かなり電波(映像)が減衰する。そこでこれを補強するために開発されたのがコンバータ(増幅器)だった。昭和29年11月のことである。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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