実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第140回

「テレビ共聴施設の生い立ち③」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 テレビ共聴の歴史をたどるため、群馬県伊香保町に、計画の発案者、千明三右衛門(ちぎら・さんえもん)氏を訪ねたが、千明さんは、往時のいきさつを次のように続けた。
 「当時、小林という電気屋さんが私の町に住んでいましたので、彼らと町全体の協力を得て工事をした。最初すべての旅館(30軒)にケーブルを引き込むことにしたわけですが、次の問題はテレビ受像機を、どのように購入しようかということになりましたが、高かったですね、あのころは。また加入料とか維持費(保守管理費)をどうするかということになり、何回も理事会を開き、協同組合もつくって検討しましたね。最初の加入金は、たしか1戸1台につき1万円ということでした」当時の1万円といえば、たいへんな金額であった。
 「そうこうするうちにナショナル(松下電器)の人が来て一括購入してくれるなら便宜を図ろう。その代わり他の電気製品もすべてナショナルにして下さいという申し入れがあったりしましてネ。いろいろな問題が起きましたなぁ」という裏話まで出た。そんなことを聞きながら私は「それは何月何日ぐらいのことですか」要するに正確な日時を知りたかった。しかし千明さんは「なにせ古い話ですから。あるいは観光協会に記録があるかもしれません」
 そのように言われるから早速、伊香保町観光協会を訪ねた。応対してくれたのは荒井さんという40歳半ばの事務局長だった。しかし快く応じてくれた荒井さんも世代の違いがあってか建設当時のことはご存知なかった。そこで荒井さんは奥の書庫から部厚い議事録を何冊も持ってこられ「これをご覧になると細かい記録が残っていると思います」と一緒に歴史をひもとくことになった。

 そこには昭和30年度からの伊香保観光協会理事会の模様が明細に記されてあった。その議事録を繰っていくと、昭和30年2月13日の理事会で「伊香保テレビ共聴協同組合結成の件」として、①共聴施設建設の件②共聴組合への加入の件とあった。さらに同28日の理事会では「組合加入者は遠近を問わず、1戸1施設当たり1万円とする」とあり、当時の加入者は35件であるが、塚越、千明、古久屋等の旅館は2加入とし、1件につき1万8千円とあった。また建設工事費として「物聞山山項よりの電柱16本×1万5千円」などの記述が見える。さらに3月19日の理事会では、街頭テレビ設置計画まで決められた。しかしこれらはすべて議決記録であって詳細な内容は記載されていないため、残念ながら不明に終わってしまった。

 伊香保町テレビ共同受信施設建設のいきさつについて、この工事の調査建設に当たられた元NHK(現東芝)の北城幹雄さんに、その頃のことも伺うと、まず「受信点」に選定された物聞山は千明氏の説明では、絶対に三角山だと言われるので、これを信ずるより仕方ない。また増幅器の開発は昭和29年11月、使用は30年に入ってからとのことであった。さらに東京から伊香保町までの距離は、直線で約120キロメートルであること、次にこの工事の起工式が行われたのが正しくは昭和30年4月13日のことという。そのほか、この施設等について聞くと、そのときの工事費等は約百数十万円だったという。
 また、工事完成2力月後の6月、この施設はNHKから「伊香保共聴組合」に払い下げられている。昭和30年10月24日の同観光協会理事会議事録によると「NHKより114万5千円で施設の譲渡を受けることに決した」とある。

 さて、この伊香保テレビ共聴の半年間にわたる実験結果について、北城さんは次のように示唆している。
 「実験開始いらい半年間の推移をみると、現在まで故障は一度も生じていない。しかし数回にわたってNHK、NTV、KRTともに物聞山項の電界強度が急激に低下し、受像画面にきわめて多数のゴーストが生ずることがあり、それが1両日続くことがあった。特にNTVとKRTが甚だしい。その原因は不明であるが、おそらく物聞山項において東京方向の電波伝播経路の電波が減衰し、他の伝播経路の電波はそのままで、この結果ゴーストのみが受信されたと思われる。この現象時の天候は通常と何ら変わることなく突然生ずるのです」

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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