実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第141回

「テレビ共聴施設の生い立ち④」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 伊香保町テレビ共同受信施設建設の工事調査に当たられた北城幹雄さんの話は続く。
 「伊香保の共聴施設において、受像画面にゴーストが生ずることがあった。
 テレビ共同受信方式の実験は最初のことであり、このような種々の問題に直面したが、施設を設置する場合には、第一にマスターアンテナにおける電界強度(昼夜、四季による変動)、受信画面(ゴースト)を詳細かつ長期にわたって調査することが先ず必要である。第二に増幅器の振幅特性には特に注意を要し、帯域幅は必要以上に(6メガより)広くないことである。広帯域増幅器の製作は比較的容易であるが、各チャンネルによりケーブル等の損失差があるから、チャンネルイコライザーを挿入して信号レベルを揃えることが必要である。第三にはチャンネルを3つ以上伝送する場合には、アンテナ系にバンドパスフィルターを挿入して他のチャンネルの妨害を取り除かねばならない」
 少し専門技術的であるが、当時としては正に日本最初のことであり、これらを実践し、来たるべき共聴時代に一つの針路を示された北城氏らに対し、大いなる敬意を表したい。

 伊香保テレビ共聴施設建設工事の立役者の一人である市原嘉男さん(元NHK営業総局副総局長)のことも紹介しておかなければなるまい。市原さんは伊香保を手始めに神奈川県湯河原から、その後全国的に展開されていったNHK共聴施設の指揮官的役割を担った人である。NHKを定年退職後も全日本テレビサービスの役員として、辺地から都市難視解消のために活躍された人である。
 その市原さんの話によると「伊香保の場合、設置工事は避雷器の設備やアンテナ周りだけで当時20万円、ケーブル工事が大体83万円、アンプや分配器などの機器が87万円、合計して190万という実験設備であった」という。したがって加入一世帯当たりにすれば4~5万円程度だったようである。
 また、同地域では同軸ケーブルが使われたと書いたが、同時に「Gライン」についても実験されたようだ。しかし北城氏(前出)や市原氏などの話を総合すると「Gラインはロスが少なく、また距離の長さによっては利点があるが、電波(受信波)をケーブル上に乗せて伝送するため盗聴を誘発することがわかった」。これでは正規の加入者が納得するはずがない。
 しかし、そのGラインによるテレビ共聴は最初に栃木県塩原と湯河原で採用された。NHK技研の研究と伊香保での実験による成果であった。塩原温泉街は周知のとおり篇川沿いの全長3キロに及ぶ細長い町である。従って直線で長く結ぶ場合はGラインに長所があり、曲線の多い個所には「同軸ケーブル」が併用された。この工事は昭和30年に始められた。

 湯河原の場合も地形的に塩原と類似しており、川一つ隔てる(といっても2,30メートル先は熱海市である)といった辺境で、しかも一日も早くテレビをといった観光地だけに東芝がこれに着目した。NHKの指導によって昭和32年春出来上がったが、私もそのとき初めてGラインによる共聴第一号を視察した。

 このときの視察者は文字通り大部隊であった。郵政省からは電波監理局次長の西崎太郎氏を筆頭に香西放送技術課長ら、NHKから田辺義敏技研所長、城見多津一同次長。案内役として東芝から池田熊雄常務、下村尚信技師長、吉村販売部長ら錚錚(そうそう)たるメンバーが揃った。とにかく、あの頃のメーカーは「受像機を売り込むためにはまとまりのある共聴を」と松下電器、日本ビクター、日本コロムビア、三菱電機、ゼネラル等が鎬(しのぎ)を削って全国各地で共聴造りに奔走したものである。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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