実録・戦後放送史 第142回
「テレビ共聴施設の生い立ち⑤」
第4部 テレビ普及に向けた動き
ここまで、共聴施設の始まりに関する話を振り返ってきたが、この共聴も次はNHK共聴時代に入り、やがて昭和42年に入り「テレビ二次プラン」の実施により、ケーブルから電波へと移り変わることになった。
わが国のテレビジョン放送の早期普及の陰に共同受信方式(テレビ共聴)がいかに重要なはたらきをしたかについては、あらためて説明するまでもなかろう。
ご承知のとおり日本のテレビジョン放送は、昭和28年、20余年にわたる研究と実験成果に加え、多くの歴史的ドラマを体験したあと、まずNHKが2月1日トップを切って本放送を開始、続けてNTV(日本テレビ放送網)が8月28日、TBS(東京放送)は30年(1955年)4月1日に開局した。しかし、昭和32年田中角栄郵政大臣が、全国の民放34社36局、NHKの7局に大量免許を与えるまでは、東京、大阪、名古屋など大都市中心であって、テレビのようなもっとも文化の度合いの高い情報源に地方住民はめぐまれなかった。さらにリゾート地、温泉街に住む人たちにとっては、格好の誘客材とあって、テレビ電波の誘致には極端なほどの熱意をみせていた。
一方、テレビ受像機の生産に本格的な取り組みを開始した多くのメーカーや販売業者は、これが販売促進の近道とばかり共同受信(有線テレビ施設)の普及に積極的に乗り出したのは当然であった。同時に温泉地の強い設置意欲、また各テレビ局の受信者獲得の熱意などが三位一体となって、共聴施設構築を早めテレビの早期普及に大きな成果をあげたわけである。
とくにNHKが普及運動の急先鋒であったことは当然であって、施設に対する補助金の支出から、遂にはNHK自らが設置するNHK共聴時代にまで発展していったのである。かくして共聴専門企業やアンテナ専業メーカーも続々と誕生し、昭和42年ごろまで共聴業界は花盛りの時代を現出した。その後の経過については大方の周知のとおり全国的にU・V混在の、しかもミニ・サテライト局が普及し、今日ではテレビ電波はほぼ100パーセント普及を達成し、さらに衛星時代を迎えることになり、かつての辺地共聴は、ビル陰共聴(難視解消用)へと移り、現在ではそれが発展してCATV、都市ケーブルビジョンへと第二世代を迎えるにいたった。
しかし、この共聴発達史のなかで特に記録にとどめておかなければならないことは、この過程において、テレビ受信技術が著しい開発と発展を遂げて来たことであろう。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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