実録・戦後放送史 第143回
「電波技術協会設立①」
第4部 テレビ普及に向けた動き
ここで、わが国のラジオ、テレビ技術の向上に至大な貢献を果たしてきた電波技術協会の設立について振り返っておきたい。
財団法人電波技術協会が正式な法人格をもって発足したのは昭和27年3月31日のことだが、その発足の経緯やその功績については、あまり伝えられていない。
この協会をつくろうという意見が出たのは昭和25年春のことであった。
昭和25年という年は、大げさにいえば日本の歴史を新しく塗り替えた年でもある。朝鮮戦争の勃発もこの年の7月であるが、その1カ月前の6月1日、戦後日本の諸産業の振興をもたらす原動力となった「電波三法」が施行された。
いわゆる「電波を国民のもの」とした電波法。独占形態であった放送をNHKと民放二元体制として、放送新時代を築いた放送法の制定。
そして間接的ではあるが、この電波三法の目的を側面から支え、成果に結びつける陰の功労者となったのが電波技術協会のはたらきだったと私は言いたい。
ラジオ、テレビ受信機の改善向上だけでなく、一般の無線技術の開発に加え、ラジオ、テレビ修理技術の育成(国家試験の代行)など、その業績は枚挙にいとまがない。
「電波三法」は4カ月にわたる難産のすえ昭和25年5月2日、衆参両院における一切の審議を終え即日公布、6月1日施行された。
そのころ特に放送や無線通信の将来を真剣に考えられ、また懸念されていたのは新谷寅三郎(しんたに・とらさぶろう)氏であった。新谷氏は逓信部内の先輩であり、戦後間もなく退官され、初の参院選に当選、昭和41年には郵政大臣をも歴任された人であるが、いってみれば生涯を電波、電気通信に捧げられた人である。したがって電波技術協会ができたのも、この人があったればこそ、と私は断言してはばからない。
とにかくこの人は、言い出したら後に退かない人で(俗にいう一言居士ではなかったが)あることを仕上げるまでは、実にねばり強く、また意思を押し通す人だった。だから国会などが開かれるときは役人をはじめ関係者は「どんな質問が出るのか?」とビクビクものだったし、当の新谷議員も納得する答弁が出るまでは何回でも質疑を展開する。
その当時の新谷さんの持論は「電波、電気通信の振興発展なくして、敗戦日本は再び起ち上がることはできない」と、まことに旗色鮮明であり、私には「そのための専門紙を作れ」とよく言われた。
その新谷さんが、いつも口ぐせのように言われたのが「ラジオや無線の受信機を、なんとかしなければいかんね」だった。昭和25年春ごろからの話で、それがやがて「ラジオ・テレビ懇談会」の結成へと結びつくのであった。
ここで少し蛇足になるが、もう一度昭和25年当時を回顧してみよう。あの頃といえば民間放送が近く免許されるほか、もろもろの無線局も大量に免許が行われる見込みとあって、国中が「電波解放」の喜びに浸っていた。しかし、その反面では、せっかく訪れた電波の民主化とは裏腹に、あらゆる無線機、とくにラジオ受信機の性能の悪さが問題になっていた。
当時の家庭用受信機といえば、ほとんど「並四球」と呼ばれる戦時中の遺産であって、いわばNHKの放送だけ聴こえればよいというようなものであった。したがって「選局」するにも周波数の分離性能が不十分で、音質も劣悪そのものだったから、とても音楽などに親しめるものではなかった。そこでまず分離をよくするために「高周波一段つき」受信機をつくり、次に本格的なスーパーヘテロダイン方式の採用と方策がとられたのであるが、国の政策もバラバラであって、たとえば放送政策は電波監理委員会が行い、機器の生産分野は通産省の担当ということで、しかも生産技術の面では工業技術院の所掌と複雑であった。また、受信機の修理業務についてはNHKは放送法により半ば禁じられていた。したがって行政の一本化は無理としても、目的を一つにする何らかの機関を設ける必要を説く声が次第に高まった。
そうした背景をふまえて、すべての関係者の糾合をはかったのが、新谷寅三郎議員だった。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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