実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第144回

「電波技術協会設立②」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 当時、新谷寅三郎さんからは、会う度に「キミも電波タイムズの社長として、この受信機改善に協力してくれ給え」と言われ、網島電波監理委員(副委員長)や小松さんなどから尻を叩かれた。
 しかし私にできる協力といえば、新聞でキャンペーンを張る(論説や時評を書く)ことぐらいで、あとはメーカー等を戸別訪間して、生産者側の士気を鼓舞することだった。しかし、それだけでは不十分である。そこで考えついたのが「問題提起」、つまりもっとはっきりした「世論の喚起」であった。「受信機改善はいかにあるべきか」をテーマにした座談会を何回となく開き、これを紙上に連載し反響を待った。
 この運動はわれながら成功したと考えるが、いわばこれによって行政や業界幹部の考えが、関係者や国民に周知されたことは僥倖(ぎょうこう)だった。

 かくするうち昭和25年の秋も深まったころである。こんどは日本ラジオ技術協会の隅野久雄理事長から電話があり、「新谷先生が会いたいと言っている」という。隅野さんという人は、元逓信省電務局の無線課長から戦時中NHK入りし、理事(熊本中央放送局長)となり戦後退任したものの、間もなく逓信省の肝いりで設立された財団法人日本ラジオ技術協会理事長になった。その後再び郵政省の外郭法人として電波振興会(現電気通信振興会)の誕生とともに初代理事長になった人で、新谷議員とは東大のクラスメートでもあった。
 さて、隅野さんから指摘された場所は、常宿ともいうべき芝神明の芝石庵であった。そこには新谷議員、長谷電波監理長官、荘宏文書課長、NHKからは小松繁副会長、池田幸雄業務局長ら七、八名が顔をそろえていた。私はその日、率直にいって隅野さんの電話だから(いつもの麻雀会ぐらい)と軽く考えながらの出席だった。ところが案に相違して私の呼ばれた理由は「『ラジオ・テレビ懇談会』を作ることにしたので、そのメンバーについて、君の意見も聞きたいし、またこのことを新聞で大いにPRしてもらいたい」ということであった。
 「キミの啓蒙運動には感謝しているが、このうえとも頼みますよ」と新谷さんは言われ「心当たりの人を紹介してもらいたい」ということになった。咄嗟のこともあって私は、思いつくままに、これぞと思う候補者をあげたりしたが、ほどなくして荘文書課長から「ラ・テ懇談会」のメンバーが決まったことを聞かされた。それは次のような顔ぶれだった。

▽新谷寅三郎(座長・参院議員)
▽委員=網島毅(電波監理委員会副委員長)、長谷慎一(電波監理長官)、野村義男(同法規経済部長)、清田良知(同施設監督部長)、甘利省吾(同電波部長)、荘弘(同文書課長)、西崎太郎(同国内課長)、森本重武(同技術課長)、谷村功(同放送国際課長)、穴沢忠平、近藤善三郎(同技官)。
そして電気通信省から吉田五郎(通研所長)、通産省からは和気幸太郎、荒居清藏、相場弘一、市瀬幸治。NHK側委員として小松繁(副会長)、池田幸雄(業務局長)、高村悟(受信機部長)。
また無線通信工業会側からは橘弘作(日本ビクター)、高柳健次郎(同)、池田熊雄(東芝)、下村尚信(同)、秦米造(日本コロムビア)、須子信一(同)、小林宏治(日本電気)、藤尾津与次(松下電器)、久野古夫(同)。工業会事務局から河野周一業務部長、鈴木信夫技術課長(いずれも当時の各氏)。

 かくして、この懇談会は25年も押し詰まった12月に初会合がもたれ、座長となった新谷議員から、設立の主旨説明に次いで、今後の検討議題等の打ち合わせが行われたが、この顔ぶれは当時の電波、放送、無線界を代表する人たちであって、関係方面から多くの期待がかけられたのはいうまでもない。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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