実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第145回

「電波技術協会設立③」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 昭和25年12月に結成された「ラジオ・テレビ懇談会」は、年明けの26年から本格的かつ具体的な受信機対策が話し合われた。
 懇談会という以上、堅苦しい規約など設けないで「むしろ懸案の諸問題等について、多角的に自由な発言を」という新谷座長の要請に応じて、各委員から活発な意見が開陳され、次第にその構想が煮詰まっていった。
 ポイントは、一日も早くスーパーヘテロダイン・ラジオ受信機の製造と普及対策を進めること、次に開発の迫られているテレビ受像機の国産化であった。しかもその仕事は特定の企業が行うのではなく、「挙国一致」してこそはじめて成果に結びつくという意見に一致した。まだそのころは「挙国一致」という表現が残っていたのも懐かしい思い出であるが、それはそれとして、この緊急課題を促進するためには、特殊法人というか関係者の全員参加による、しかも民主的な調査研究機関を設けるべきだとする意見にまとまった。新谷、網島さんらの胸中には始めからこの腹案があったので、すぐにその準備が進められ、「協会(仮称)」作りのため電波監理総局、通産省、NHK、無線通信機械工業会等から5人の幹事が選ばれ準備にとりかかった。

 「あのときは、機関の名称をどうするか、予算、事業計画案などを含めて、いろいろと意見が出ましてネ。団体造りのむずかしさを体験しましたよ」これはNHKの受信機部長で幹事となった高村悟氏の後日談であるが、そこで夏ごろまでにまとめられたのが次のような「電波技術振興会」設立趣意書であった。
 いわく「放送法施行により日本放送協会(NHK)は特殊法人として発足し、全国あまねく放送の普及を義務付けられたものの、受信分野においては、受信機の製造、修理等の干渉ができなくなった。しかしながら、民間放送の出現を目前にして受信機の改善、修理等の業務を行う機関等の設立は急務であり、その対策として放送、無線技術、あるいはラジオ業者の啓発などを目的とした「財団法人」の設立こそ必要である」
 だが、この法人の設立をめぐって、さらに論議の的となったのがその〝名称〟であった。電監当局としては「電波〇〇」と主張したが、通産省側は「無線××」あるいは「放送技術協会」等々、名称への〝こだわり〟があった。
 この名称をめぐって懇談会は議論百出したが、結局は折衷案として出された「電波技術協会」にまとまり、法人格についても社団よりも財団法人とすることが運営上ベターであると決まり、26年11月の第11回懇談会で発起人総会の日時、役員およびその選出方法などが諮られて一切の準備を終えた。こうして電波技術協会の発起人会が行われたのは昭和26年12月26日のことだった。

 発起人として選ばれた池田幸男(NHK業務局長)池田熊雄(東芝常務)秦米造(日本コロムビア社長)渡辺斌衡(日本電気社長)橘弘作(日本ビクター社長)松下幸之助(松下電器社長)及び溝上銈(NHK理事技術研究所長)の諸氏は、
①まず創立総会を27年1月17日に開くこと
②協会の事業計画及び収支予算案
③役員として会長に石坂泰三東芝社長(通信機械工業会会長)、副会長に米沢与三七、常務理事に穴沢忠平、斎藤有。理事に市瀬幸治(通産省)川上為治(工業技術庁)、高柳健次郎(日本ビクター)、田辺義敏(NHK)、玉置敬三(通産省)、野村義男(電監)、藤尾津与次(松下電器)、小林宏治(日本電気)、駒形作治(工業技術庁)、遠藤幸吉(民放連)、甘利省吾(電監)、清田良和(同)、木内良胤(民放連)、溝上銈(NHK)、下村尚信(東芝)、須子信一(コロムビア)、鈴木平(工業技術庁)、平井始(電気通信省)以上19名。
 監事には池田幸男(NHK)、楠瀬熊彦(通信機械工業会)の両氏。そして評議員には井上春成(工業技術庁)、池田熊雄(東芝)、長谷慎一(電波監理長官)、渡辺斌衡(日電社長)、甲斐政治(民放連)、橘弘作(ビクター)、松下幸之助(松下電器社長)、小松繁(NHK副会長)氏を内定した。
 また顧問として石川一郎(経団連会長)、辻寛一(衆議院議員)、足立正(東商会頭)、網島毅(電波監理委員長)、新谷寅三郎(参院議員)の5氏をそれぞれ推戴することにした。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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